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パオと高床

あこがれの移動と定住

井伏鱒二「丹下氏邸」(「井伏鱒二自選全集1」新潮社)

2014-09-26 01:54:52 | 国内・小説
きっかけは、木田元のエッセイ集『新人生論ノート』だったか『哲学の余白』だったかで、木田元がこの小説を紹介していたからだ。小説や読書の楽しみ、時間の無駄の必要について書かれた文の中で、とにかく読んでみてくださいと。
それこそ多くの井伏鱒二ファンにとっては、何を今更なのかもしれないが、いやいや、納得、うなりました。書き出しいきなり破調である。

  丹下氏は男衆を折檻(ぎやうぎ)した。(丹下氏は六十七歳で、男衆は
 五十七歳である)この老いぼれの男衆はいつも昼寝ばかりして、丹下氏
 のいふところによると、ひとつ性根をいれかへてやらなければいけない
 といふのであつた。私は丹下氏がそんなに怒つたところをまだ一度も見
 たことがない。

あの有名な作品「山椒魚」の冒頭、「山椒魚は悲しんだ」のような簡潔な書き出しだ。ところが、すぐに括弧をつけて、登場人物の年齢を入れる。書き手の聞き手(読者)への語りがすぐに現れるのだ。で、年齢を入れてから、「このおいぼれ」と書く。そして、語り手の「私」をすぐに登場させる。うまいのは、この「私」が作者かといえば、この「私」も登場人物で、陶器の研究に来ている男なのだ。こうして、小説の書き手の問題と小説の持つ視線の問題を処理する。「私」の目撃談として視線の統一を行うのだ。
なんて、理屈が先にくるわけではない。
こんなお作法はあとで考えることで、小説は、その語りの持つユーモアに惹かれてすすむ。さぼった男衆への罰が面白い。
そのさばった姿勢のままでいろというのだ。

  私は風呂場のかげからのぞき見をして、その折檻の成行きを見た。丹
 下氏は物置のなかから三枚の筵をとり出して、それを柿の木の下に敷い
 た。
 「この筵の上に寝ころべ」

そしてきまじめに、男衆がさぼって、「柿の木の瘤へ左の足の踵を載せて」、「左の足の臑坊主へ右の踵を載せて」、「憚りもなく」、「莨ばかりふかして」いたままの姿をしろと命じて、日がな一日そうしていろというのだ。そこの会話がまた面白い。そして、男衆は、丹下氏が仕事に行くのを見計らって、やれやれと、罰の姿勢を崩して、私相手に話を始める。うまいよ、この展開、この会話、この空気。よもやま話をぎゅっと詰めこんで、話の中心は、奉公人同士で、所帯を持ちながら住まいがない、男衆とその妻の逢う時間を丹下氏がそっと作る話になる。そのいきさつと心情が、会話や地の文織り交ぜながら、簡潔に、見事に一瞬だけ剥ぎ取るように描かれる。書かれたものから、物語の背景が見えるような手際。書き換えられないのではと思わせるような定着感がある。
さらに、手紙文まで上手に差し挟まれる。そして、

  森の方角から、木を挽く鋸の音がきこえて来た。その森は「ロクサの
 森」と云ひ、針葉樹の集団である。離れの窓からのぞいてみると。離れ
 は断崖の突端に建てられてゐるので、私は窓の殆ど真下にロクサの森を
 眺めることができた。こんなによく茂った森をその森の真上から眺める
 と、緑に光る陽の反射を避けるため目を細くしなければいけない。森か
 ら空中に立ち昇る一種の暑気は、風の吹き工合によつては私の頬に寧ろ
 冷たく感じられた。その森の底で男衆は鋸の音をひびかせてゐる。

あっ、描写が迫る。言葉がリアルに迫る。そう、いつから僕たちは見えもしないことを、見えるカメラになってしまったのか。なったつもりの目を備えたつもりになってしまったのか。ここには目が、耳が、そして肌の感じる触角がある。直接に関係できる世界が描かれる。

志賀直哉の文章もすごいが、井伏は拮抗していると思う。対峙している。すでに「城の崎にて」などを発表し、「暗夜行路」の前半を書いている志賀直哉に相対する文体を獲得している。描写の中に、間違いようのない毅然とした対峙が見られる。そして、この小説、会話に個性が光る。カギ括弧の文体に、地位の違いや、それに伴う教養の違いがかもされている。それが地の文とあいまって場の臨場を作りだす。
発表は昭和6年、1931年2月。9月には満州事変が勃発する。なんだか、まだまだ、時代は、転がる実感を伴っていないのかもしれない。小説の最後の描写が、いい。

  私は離れに帰って、窓から谷間の風景を見た。月は向こうの山からの
 ぼり、それはこのごろの月の出の工合にしたがって大きな赤い月で、谷
 底に立ち込めてゐる霧の上層を、その真上の空から照してゐた。

見えていたものは何だろう。霧の上層を、井伏はどうして見たのだろうか。

と、年号を書いても、それで時代性を云々するわけではない。
ただ、ひとつの表現には、その表現がある今その時と、大森荘蔵的にいえば、その直前過去と直後未来があるのだろう。あたりまえに、すべてのものに、そのものが持つ今がある。小説は、文学は、その刹那に自らを投企するものか。小説には、その当時の今があり、それを感じさせる文体の力がここにはある。

笠井潔『吸血鬼と精神分析』(光文社)

2014-09-06 09:33:08 | 国内・小説
やっと読了。といってもこの小説のせいではなく、たんにボクの時間の問題。一気読みできる人は、一段ぐみ800ページのこの小説も一気に読める。
矢吹駆シリーズはやはり面白い。

今回の思想はラカン。ジャック・ラカンとおぼしき(というか、直でラカン)、ジャック・シャブロルという精神分析家が登場する。彼は、「フロイト回帰派」の指導者で、鏡像段階、想像界・象徴界・現実界、享楽と去勢などなど、ラカンの理論をめぐる議論が展開される。これに多重人格と解離の問題、ラカン批判としての父性と母性、父神と母神の葛藤などが加わる。
探偵小説についての文で、「今回はラカン」というところが、すでに笠井潔のシリーズの面白いところで、現代思想への考察と批判が小説の背景という以上のヴォリュームを占めていて、それが魅力なのだ。
これに、さらに、肯定神学と否定神学をめぐる神学論議、シニフィアンとシニフイエの逆転現象やシーニュ(記号)がシニフィアンとして、内容を指し示さずに次のシニフィアンとなるシニフィアンの連鎖、吸血の意味論、現象学と精神分析の戦い(?)、なども絡まり合って、当然のように、ページ数は増していく。
で、探偵小説のストーリーは、本のデータベースによる紹介文を引用すれば、
「パリ市東部に位置するヴァンセンヌの森で女性の焼屍体が発見された。奇妙なことに、その躰からはすべての血が抜かれていた。続いて、第二、第三の殺人が起こり、世間では「吸血鬼」事件として注目される。一方、体調不良に悩まされていた女子大生ナディアは友人の勧めで精神医のもとを訪れる。そこでタチアナと いう女性に遭遇し、奇妙な依頼を受ける。各々の出来事が、一つの線としてつながったときに見えてくる真実とは…。ナディアの友人である日本人青年が連続殺 人の謎に挑む。本格探偵小説『矢吹駆』シリーズ第6作。」
となる。
タチアナは、ルーマニアから亡命した元体操選手。チャウシェスクの政治体制がもたらす諜報活動も事件の流れのひとつにあり、駆の宿敵イリイチも登場する。

本質直観を駆使する駆の推理は論理的で、それを記述する笠井潔の文も執拗に論理性を重視しながら、事件の問題点を整理しながら進んでいく。そこにおかれた記号の多義性を丹念に読み解きながら、現象が指し示すものを記述していく。それが、そのまま読者の推理を誘い出していく。その現象に向けての考察が、小説をぶ厚くする。どこまでも作者の誘導や独善的な推理の道筋ではないという姿を示しながら、そのこと自体が推理小説自体への批判にもつながるメタ・フィクションの要素も持っている。批評家でもある作者ならではなのかもしれない。
また、ナディアの視線で書かれたところと物語作者笠井潔の視線で書かれた章や警視の心理で記述されたところなど語りの縦横さもある。
細部が織りなし、構築される物語世界をじゅうぶん楽しむことができた。
あとは、ウーム、シリーズの中で何番目ぐらいの作品かな。


東直子『とりつくしま』(筑摩書房)

2013-06-22 08:59:30 | 国内・小説
『想像ラジオ』を読んで、物や場所に宿る死者の思いについて書いたが、東直子の『とりつくしま』は、死者が生者への思いを込めて何かにとりつくという設定の連作集である。番外篇一篇を入れて、全11話。
第一篇は、こう書き始められる。

  ざわざわしている。まわりがよく見えない。でも、まわりにたくさ
 ん、いる。なにかいる。とても、いる。ざわざわしている。
  これが、そうなの? こういうかんじなの?
  私は死んだ、らしい。それだけは、分かっている。

そして、死んでしまった者は「とりつくしま係」に出会う。係は言う。

  「そう、とりつくしま。私は〈係〉ですから、一目で、とりつくしま
 を探している人が分かります。あなたは、とりつくものを探している気
 配をおおいに出しています。あなたが、その気配を出しているうちは、
 この世にあるなにかのモノにとりつくことができるのです」

生きているモノはだめだが、それ以外ならモノになって、もう一度、この世を体験できる。野球部の息子のロージンに母がとりつく、「ロージン」。結婚二年目で亡くなった妻が、夫のマグカップのトリケラトプスの絵にとりつく、「トリケラトプス」。子どもが公園の青いジャングルジムにとりつく、「青いの」などなど。死者の思いと生者の思いが綴られていく。もちろん、声を聞き合ったりはしない。そばにいながら、遠い存在だ。ただ、逆もいえる。遠い存在になってしまったのに、そばにいる者。その気配と心の感応がやさしく描かれる。一篇ごとに、わずかの時間で読んで、何となくホワっとした気分になって、同時にちょっとせつなくなる。そんな小説たちだ。
東直子は歌人としても有名で、小説家と歌人、どっちが知られているのだろう。
そういえば、穂村弘との共著で『回転ドアは、順番に』という作品があった。恋人同士の、春の日の出会いから春の日の別れまでを、短歌と詩で応答するように描きだしていく。スリリングで面白い本だった。


いとうせいこう「想像ラジオ」(「文藝」2013年春号)

2013-06-15 09:16:39 | 国内・小説
 「想像せよ」
 「想像するんだ」
 「何が起こるんだ?」
 「しっ」
 「きっと消えていくんだ」

声を聴く。そして、場所に宿る感覚を感じとる。そういったことをここしばらく考えていた。人の話を聞けとかそんなことではなく、飛びかい消えいく声を聴く。
また、いたはずの何者かが消えてしまったとき、その場所に、ある物に、宿る感覚は、単にいたはずの何者かへの記憶だけなのだろうかとも考える。そこにいた者が消えたとき、いた者にとっての世界は消える。しかし、今いる者にとっては彼の消滅が彼の世界の消滅とはならない。依然として、そこには彼の不在の世界が残る。それだけなら、喪失は喪失としてある。消えた彼の重力は空間の補正力のようなもので修復される。心に穴を残して。そして、その穴へと、光さえも飲み込まれてしまうような、失われた者一人分の重力の欠落へと、周囲の重力は働きかける。時も、そこへと流れこんでいく。経過していく時間が心を癒すかはわからない。しかし、間違いなく時は流れこんでいく。だが、それで消えた者の世界が消えてしまうわけではない。そこにいたはずの者がいる感覚を感じとる。彼らの言葉を感受する。「想像せよ」。それは生者の傲慢か。で、あったとしても、そこにいたはずの彼の、彼女の声を想像せよ。

いとうせいこうは、小説というからくりを使って生者と死者の重層的な空間を創り出した。それは、事故、事件、災厄によって瞬時に発生する世界でありながら、瞬時には消えない世界である。彼は、その世界を死者の側から語り出すという力業をやってみせる。
地震後の津波によって杉の木に引っかかり、生者ではなくなった芥川冬助は、そこからリスナーである死者へと言葉と音楽を届けるDJになる。名前は方舟というDJアーク。開始時刻は午前2時46分。あの大震災が発生した時刻を午後から午前へと転回させている。
彼は自らの妻や子へ語りかける。また、死者たちはDJである彼へと語りかけ、彼は死者の言葉を代弁する。
五章構成の奇数章は彼のDJで進む。一方の偶数章は生者である「私」が、そのDJを聴き取ろうとする生者の章になっている。
では、死者のラジオをどうやって聴くか。

  あなたの想像力が電波であり、マイクであり、スタジオであり、電波
 塔であり、つまり僕の声そのものなんです。

そして、それを感受するのは

  そう考えると今まで僕が想像力こそが電波と言ってきたのは不正確で、
 本当は悲しみが電波なのかもしれないし、悲しみがマイクであり、スタ
 ジオであり、今みんなに聞こえている僕の声そのものかもしれない。

悲しみの力ともいえるものだ。そして、いとうせいこうは、今ある世界をこうとらえようとする。

  「生き残った人の思い出もまた、死者がいなければ成立しない。だっ
 て誰も亡くなっていなければ、あの人が今生きていればなあなんて思わ
 ないわけで。つまり生者と死者は持ちつ持たれつなんだよ。決して一方
 的な関係じゃない。どちらかだけがあるんじゃなくて、ふたつでひとつ
 なんだ」

  「そうそう、ふたつでひとつ。だから生きている僕は亡くなった君の
 ことをしじゅう思いながら人生を送っていくし、亡くなっている君は生
 きている僕からの呼びかけをもとに存在して、僕を通して考える。そし
 て、一緒に未来を作る。死者を抱きしめるどころか、死者と生者が抱き
 しめあっていくんだ。さて、僕は狂っているのかな?泣き疲れて絶望し
 て、こんな結論にたどりついていて」

共にある場を作りだすために未来は構想される。それは、聴くという行為から始まるのかもしれない。
この小説は、第二章で死者の声を聴くという生者の傲慢さをめぐる議論を展開する。小説の構造、仕掛けを小説の中で処理し、小説の中に異なる声を持ち込む。そのことで小説は、一方的な傲慢さを排除している。
また、四章は会話だけで成立している。しかも、それは「私」と私が愛した女性との会話だ。「私」は、それを作家として記述するという構成になっている。そこに、想像力を記述し、記録する小説作家の、作家としての気概と、その結実を見出すことが出来る。
「想像ラジオ」、感嘆した。

49日があるように死者がはなれていく。それまでは、

  あの世にあなたを送る方にとって、あなたを失ったことはしばらく
 そうであるような、ないようなことであって欲しいんだ

そして、その先へと向かおうとすることばがある。

綿矢りさ『大地のゲーム』(「新潮」3月号)

2013-06-01 10:52:44 | 国内・小説
ああ、こうくるんだと思った。と、書いても、何がそうきたわけだということなのだが、読んで最初の、というか途中の感想が、ああ、こうくるんだということだったのだ。
文学は出来事の余白に寄生する。出来事を語る多くの言葉が事象を伝えながら形づくっていく時に、文学は、小説は、その出来事の余白を描きだす。隙間に宿る。小説の問いは、余白から現れでる。例えば、記事はその出来事を描きださなければならない。起こった事象に対して、その事象を描きだすことに最大の労力が費やされるものだと思う。その事象が起こった必然を問いながら事象の因果の道筋を問わなければならない。また、政治は本来、現実的な対処の枠組みを描きださなければならない。政治の言説は出来事に対して取りうることと取り得ないことを計量していく。そんな中で、文学は余白に物語るものを見つけだす。だから、余白が生まれる時差を必要とする。時差によって生じる余白に言葉が滲みだすまで待つ。出来事でありながら出来事そのものではないところにも、小説は触手を伸ばすことができる。だからこそ、小説は遅れて現れても、力を持ち得るのだと思う。

綿矢りさのこの小説は、「あの夏」に起こった未曾有の地震によって崩壊した街の中、大学にいて難民化した学生達を描きだす。ニュースは次に続いて起こるであろう地震の可能性を告げ、警報は頻繁に鳴り響く。
小説は、震災以後であり震災以前である間(あいだ)を生きる状況を設定する。かつて、戦前、戦後という言葉に対して戦間期という言い回しで1920年代から30年代までの思想状況を語った本があったが、この小説は、そんな数年のスパンではなく、数ヶ月の仕切られた空間の中での宙ぶらりんの生の状態を描きだそうとする。宙ぶらりんなのは、震災を生き延びた命でありながら、次に起こるはずの震災によって命の保証がなしくずしになっているからであり、また、いったん命の軽さを見せつけられた者にとって、どこかしら生のリアルそれ自体が危惧と違和感を呼び起こすからである。
だから、「家や下宿先が倒壊して本当に帰る場所がない学生」もいるが、「家は無事だったのに、あの日以来取りつかれたように学校から離れない学生」もいて、主人公は、この「離れない」学生の一人である。そして、こう書き込まれる。

  それでも家に帰らないのは、たぶん日常に戻りたくないからだろう。 
 (中略)再び地面が激しく揺れる日は、まだ来ていない。しゃくにさわ
 る余震が一日に数回足の下を通り過ぎてゆくだけ。でもカウントダウン
 は始まっている。だから平和な日々をまだ思い出したくない。どうせ築
 いても、またすぐ壊れるかもしれないのだから。

その学内で、その夏起こった事件をひとつの軸として小説は進む。さらに、学園祭を実行するという学園祭の日に向けて小説の時間は進んでいく。その日々の中で、主人公である「私」と「私の男」。「私」たちが所属する「反宇宙派」というグループの「リーダー」と呼ばれる男。そして、「マリ」。この四人の四角関係が小説の中心である。

「リーダー」は震災の後、秩序を無くし暴徒化し混乱した学内で、いち早く、組織化を進め秩序を提示しカリスマ的な存在となる。
彼は学内で強く語りかける。「私たちに指導者などいらない。あなたのリーダーは、あなた自身です。この崩壊寸前の世界で、あなたを救えるのは、あなただけです。」と。
そんな「リーダー」の強い言葉は人々の心をつかみ、人々は、頼ることができるのは自分自身だと言う彼を頼っていく。「私」は「リーダー」に惹かれながらも一方で、「リーダー」の持つそんな存在自体の矛盾にも気づいている。「私の男」も「リーダー」の孤独とその欺瞞に気づいている。人々の群衆性が「リーダー」を支えているのだ。その現れが夏の生徒リンチ殺害事件である。「私の男」は、そのリンチの引き金が自分であったという罪の意識を抱えている。だからこそ、集団が集団的な狂気に憑かれ流れることを冷静に恐怖している。そして、「私の男」自身の罪を肩代わりし、カリスマとなっていく「リーダー」に距離をおき、殺意も抱く。

小説では、「反宇宙派」という組織に属す者は固有名詞をはずされている。また、「私」との関係が成立している者はその役割で書かれている。一方、「マリ」や「マリ」を追いリンチされる「ニムラ」は固有名詞で書かれている。「私の男」と学生達は固有名詞の「ニムラ」をリンチ殺害する。「リーダー」に近づき、「リーダー」と特別な関係になっていると思われる「マリ」は、他の女子学生に狙われ、「私」も「マリ」に両義的な感情を持つ。この「マリ」は、次のように描かれている。

  マリに気楽に声をかけたが、彼女がふりむいたとき息を飲んだ。何も
 考えていないのに憂いを帯びた大きな瞳。未来も過去も持たず移り変わ
 る季節にだけ存在している小動物。子どもっぽい顔立ちが愛くるしいの
 に、大きな瞳は時おり真っ暗な虚無しか映さない。真昼のつぎに、すぐ
 真夜中が訪れる彼女の内面は、読み取れず、つい息をつめて観察する。
 虚無が醸し出す異様な存在感に、周りの学内の風景が吸い取られて雑に
 見えた。子どもにもおばさんにも見える彼女は人間をかたどった精巧な
 ミニチュアだった。

アニメ系か、コンピューター上で作られた人間を連想する。一方、時間を持たない常に現在形の存在にも見える。そんな存在は、時間を意識しその中で生きている者にとっては、魅力的でありながら忌避すべき対象にもなる。そんな彼女が学内を逃げ回り、「私」を頼る。「私」は彼女を保護しながら同時に彼女に殺意を持つ。
災厄による大量の生の喪失が背景にあることで、「殺意」や「排除」が強力になっているが、起こっていることは日常的な集団の中で起こっていることと相似形である。綿矢りさは、震災という現在私たちが置かれている状況を設定しながら、実はそれをはずしても存在している日常的な状況を描きだしている。
ただし、その日常的な状況が乗っている「大地」は、実は、生が賭けられている場所であり、私たちは「大地のゲーム」の中にいて自身の生を賭けていくしかないのであるというところに作者の思いはあるのだろう。
小説は冒頭、「私」が幼いとき、兄と一緒に乗った「夜の電車」の場面で始まる。

  いつか力尽きるから美しい。その美しさからは逃れられない。
  この世に死があると知ったのは、家出した兄と一緒に乗った、夜の電
 車のなかだった。横並びの座席で兄の隣に座った私は、ほかの乗客が見
 るのも気にせずに泣いた。

私たちはいつどんな状況で死を知ったのだろう。そして、その認識の段階と関係なく、唐突に訪れてしまう死とは何なのだろう。訪れることによってしか認識できない死。しかも、自身の死は訪れて認識したときには終わってしまう。と考えながら、この書き出し、「いつか力尽きるから美しい」の「美しさ」は何の美しさなのだろうとも思う。「力尽きる」ことの「美しさ」なのか。それは違う。「力尽きることは美しい」とは書かれていないのだ。この主語が省かれた書き出しは、主語への謎を残す。そして、「逃れられない」とする「美しさ」が何なのかを問いとして残す。この書き出しの省略された主語を「人」あるいは「人間」と置くと、書き込まなかった理由が明白になる。あまりに直接的すぎてかえって浅薄になるからだ。だが、そんな言葉が省かれていることを思うと、この小説が基本、何かを糾弾する姿勢の小説ではないことが感じられる。「力尽きる」からこそ美しく、さらに美しいから「逃れられない」人間の生を肯定しているまなざしがあるのだ。生によって死を語る。あるいは、死は生の側からしか語りえないのではないだろうか。

細部に気になる点がある。それを気にしだしたら、どうなんだろうと思えてくる。だが、災厄という大きな物語と学内という小さな物語を結びつける力業と構想された小説の持つ展開、それから綿矢りさの語り口に引かれて一気読みできる小説だった。「悪」の「悪」性、「暴力」の「暴力」性が、オブラートされている品性。本来暗部であるものに何か光が宿っている感じもいいのかも。