パオと高床

あこがれの移動と定住

片山恭一『愛について、なお語るべきこと』(小学館)

2013-02-01 13:03:20 | 国内・小説
  地球上のあらゆる人間は、勝つか負けるか、得るか失うかといった、
 利害関係だけで結びつけられてしまい、やりたくもない競争を、世界が
 終わるまでつづけることになる。

 「戦争をなくすためには、愛を宇宙空間に廃棄しなきゃだめってことに
 なりまね。」

  普段は、いろいろな音に紛れて聞こえないけれど、誰のものとも知れ
 ない泣き声は、空気の澄んだ空のずっと高いところを、いつも途切れる
 ことなく流れている。落ちてくることも、宇宙の果てへ飛んで行ってし
 まうこともなく、過去にも未来にも流れつづける。

幾つかの文体に織りなされた小説世界を進む。ある程度の速度で、ただ、流れるだけではなく、時々、突っかかりながら。でも、一気に。

人類が考えだし、創り出した価値観が、システムが、人類とその棲息する場を疲弊させる。人類の求めた快適さと効率の良さは、結局、人類の欲望の解消へと向かって果てることなく肥大化していく。それは、人類の快楽原則に従った欲望の解決法が資本主義の基盤を支えるものであるからだ。生産と消費の無限の繰り返しは、消費への欲望が常に生産の欲望よりも余っていることに置いて、限りない消費欲を生みだし続ける。消費し続けるということは、生産し続けなければならないということであり、生産し続けることは、人とその環境を疲弊させながら、消費の完全な満足に対しては、常に不完全なものでしかありえない。そして、人間は本来生産するという労働よりも、消費するという行動の方に快楽を感じるものであるのだ。そこに歯止めをかけることができるものはなんなのだろう。危惧は蔓延する。しかし、危惧はそこにある危機を回避できるのだろうか。思想が、哲学が、そして文学が、危惧をもたらす現在を鋭く問いつめる。その先にある倫理は、おそらく、ボクたちの加速する時間にブレーキをかけることができるのかもしれない。だが、倫理は、その役割に置いて、ボクたちを疎外してしまう。あるいは、ボクたちは倫理を隠蔽する。その現況自体も含めて、文学はもう一度、いや何度でも問いを発し続ける。言葉と想像力と、そして創り出された世界が示す創造の力で。

570ページに及ぶこの小説は、想像力をばねにして、現在と格闘する思索の軌跡を示す。
小説は、二重構造を採っている。奇数章は「彼女の本当の名前」という近未来小説であり、偶数章は各章ごとに「微笑」「経済」「楽園」「戦場」などの漢字二文字の章題がつく、「愛について、なお語るべきこと」という現在の小説になっている。その二つのパーツが入れ子構造になって、ゆるやかに連関する。

「彼女の本当の名前」の章は、人類の大半が死んでしまった災厄後の世界が舞台である。少年オサムと言葉を話せない少女ギギが、その世界の中で、街の暮らし、山の狩猟の暮らし、農耕の暮らしを経て、自然の原理に従い生きていく姿を描き出していく。これは、もう一度人類が生きるためのリセットの可能性を探る物語でもある。狩猟で生きる、かつて畜産農家だった老人との山で生きる知恵をめぐる対話や、今は見かけなくなった鍛冶屋の男との交流と罪が介在した葛藤などが面白い。
農耕を行う「耕す人」と狩猟する老人との価値観の差と共生は、農耕牧畜の価値の多様性にも重なってくる。そして、物を交換することで生きていく街の暮らしとの構図は、これまで人類が経てきた時間を再認するようで、大仰に言えば、縄文と弥生、農耕と牧畜、生産と交換、などの文明史的対立が再考できる。これを進化史観ではなく、価値多様性として、どう捉えていくか。未来において、それぞれのもつ限界は、また繰り返されるのか。それは、物語の外に置かれる問いになるのだろう。
少女ギギは本当の名前を持たない。少年はギギの本当の名前を探そうとする。ボクらは名指された名前を持っている。だが、関係の中で、自分たちが見いだす名前、それを本当の名前というのなら、名指し名指される関係をリセットすることは、自らの生を新たに獲得することにつながるのかもしれない。また、名指すことは、概念と向き合うことにもなる。少年とギギの物語は、まだ「愛」という言葉にならない、それ以前を描き出す。「愛」な名指すもの(こと)をまなざすことでもあるのだ。
横に並んで、同じ明日を見るのではなく、互いが互いの顔を見る関係。そこにお互いを名指すという行為が生まれる。「顔」のない成長の夢を追っていた時代から、お互いの顔を探す時代への変化、その大切さが静かに語られているようである。

作者片山恭一は、「言葉の初期化」という言い方を自作紹介で使っていた。概念や価値をもう一度初期化するところから考え直し、構築し直してみる。人類は、愚かにも繰り返す。が、一方で、生の営為を続けていく人類が、別の価値観を得る初期化の地平はどこにあるのか。小説の想像力は、そこに向けて駆使される。

もうひとつの物語「愛について、なお語るべきこと」は、作家辻村がタイで失踪した息子を捜す物語である。軽いのりも交えて始められた物語は、中盤以降、重さを持ってくる。こちらにも「ウァン」という「本当の名前」ではない呼び名を持つ女性が現れる。辻村にとっては、この女性の「本当の名前」が、彼女の実体を探すという象徴的な意味を持っている。また、かつて戦場カメラマンであった川那部との生と死、リアルとフィクション、グローバリズムと多様性などをめぐる対話は、それ自体が文明批評になり、観念小説的体裁も持っている。
登場人物たちが、バンコクから離れて、タイの奥地にいく空間の移動は、グローバリゼーションの網の目の隙間への移動でもある。だが、そこで生じることが、すでにグローバルな世界へと影響を及ぼすのだ。
そして、奇数章の物語は、この偶数章の物語のあとの世界を描く物語ではないかと思わせる。が、一方で、作家辻村が書いた小説が、奇数章の小説ではないかという劇中劇の構造も考えられる。
時間的な継続の小説とも思わせ、併置された物語とも取れる、そんな構造になっている。

それにしても、長編小説っていい。長編小説のよさを味わうことができた小説だった。そして、小説は、登場人物に語らせることができるのだということを改めて感じた小説だった。語り手=作者と、それぞれの人物たち、彼ら、彼女らが、小説の中を駆け抜ける。


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2 コメント

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ありがとうございます。 (片山恭一)
2013-02-02 17:27:34
至れり尽せりの感想、ありがとうございます。ここまで正確に読み込んでもらい、それを的確に言葉にしてもらえば、作者としては何も言うことがありません。吉貝さんという一人の読者を得ただけで、この作品を書いた甲斐はあったと思っています。このような作品だ、いったいどれだけ受け入れられるかわかりませんが、自己慰安のためだけにも、ぼくにとっては書く必要のある作品でした。
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こちらこそ、御礼 (ヨシカイ)
2013-02-02 18:50:09
コメントありがとうございます。
勝手なことを書きましたが、コメントを読んで、
ほっとしました。
これからも作品との出会い、楽しみにしています。
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