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日本最初の住宅団地「三和町」 蕨市

2011年09月03日 15時49分29秒 | 市町村の話題



今から70年ほど前の第2次大戦中、さいたま市の南隣、現在の蕨市の田んぼの中に、日本で最初で最大級の規模の住宅団地が造られたことを知る人は少ない。

1941(昭和16)年に設立された「住宅営団」(日本初の全国的な公的住宅供給組織、日本住宅公団のようなもの)が、当時としては最先端の理念で最初に計画・建築したモデル的な住宅地で、“理想的な日本一の営団住宅”を目指した。

緑の樹木、青い流れのある健康地が目標だったという。

主に地方出身の国や民間の軍需工場の従業員用で、1942(昭和17)年着工、44年までに886戸ができた。44年3月には、世帯数760余、人口2700余人が登録された。

戦後の団地のように鉄筋コンクリートの4、5階建てではなく、木造一階建て。一戸建て(職員用)と二戸建て(工員用)で、建坪は17~約9坪,敷地は一戸建てが50、二戸建てが30坪とゆとりがあり、建坪の2~3倍あった。家と家の間には垣根はなく、庭は自由に通り抜けられ、隣近所の付き合いは楽だった。

東、西、南を水路、北は県道で囲まれていた。東西約620、南北約390mの五角形に近い形の約17haで、ほぼ四角形の11の住区から成り、それぞれの真ん中に空襲に備えて防火用の空地(後に公園になる)が設けられた。主要通りには防火用の街路樹も植えられた。

グーグルの地図で航空写真を見ると、道路は広く整然として、その区画が今も歴然と残る。

中央にはやや大型の空地、その隅に営団管理事務所、集会所があった。蕨駅からは泥道ながら県道で約20分かかった。

陸軍造兵廠(東京・板橋、北区や大宮市)の230戸を筆頭に、陸軍被服廠(現在の赤羽台団地)の160戸、沖電気(港区から疎開、蕨駅近くに蕨工場を設立)の80戸のほか、田中航空機器、石原産業・・・などの社宅があった。どういうわけか、朝日、毎日、読売新聞の社宅も少しずつあった。

蕨駅から職場まで一番遠い人で1時間15分くらい、40~45分の人が多かった。

駅からは歩け、乗れば職場にも近く、敷地も広く、日当たりもいい。それに富士山も見える。当時の読売新聞が報じたように、住宅難の労働者にとって福音だった。

しかし、終戦近くなると電灯は二室に一つ、台所と便所は共用するなどで不便になった。雨戸はなく、水はけも悪く、蚊も多かった。

水道は隣と共同井戸。資材不足で公衆浴場ができたのは44年以後。造兵廠や被服廠では、建物の無償提供を受け、仮浴場をつくり、割当制で入浴した。片道20分以上歩いて、町の銭湯に出かける人が多く、銭湯は大混雑した。

浴室はついていても風呂桶が買えないという事情もあった。

食料難の時代、庭も緑地も道もすべて畑に変わり、サツマイモやトウモロコシ、麦などが植えられ、屋根には敵機から見えないようにとカボチャをはわせた。

“千間長屋”の別名があったこの団地は、水路に囲まれていた。水清く、ドジョウやウナギ、コイ、シジミがとれ、子供たちは水遊びを楽しめた。

この団地には当初名前がなかった。営団は「蕨穂保作(ほぼさく)住宅」と名付けた。43年、この地が当時の蕨町穂保作のほか、同町塚越、さらに隣町の戸田町にまたがることから、3つの地域にまたがるので、住民が「三和町(みつわちょう)」と名付けて、届け出た。

「3つの町が和する(仲良くする)」。「さんわ」と読まず「みつわ」と読んだのもいい。いい名前である。

私は、由緒ある大字や町の名が、東、西、南、北とか中央とか、もっとひどいのは、戦後によくあった「文化」などに変えられるのに昔から大反対だ。

その「三和町」の名も、もうない。1966年、蕨市南町2丁目と3丁目の一部という単に方角を示すだけの味気ない地名に変わった。

1945(昭和20)年4月13日夜、空襲を受け、88軒が焼失、乳児一人が死んだ。

終戦後、営団はGHQによって廃止されたので、52年までに多くの住宅が分割払いなどで個人に、あるいは社宅として払い下げられた。当時の家はほとんど全部建て替えられ、面影は残っていない。

現在は、道路が広く、公園の多い(この地区だけで11か所)、長く広い桜並木のある緑豊かな住宅地になっている。

営団の当初の日本一の意気込みは、この広い道路と多くの公園に今も生きている。

三和町の元住民たちは、入居以来連帯感が強く、1982年、三和町史編集委員会が「家中みんなの三和町の歴史」、2011年にも「三和町を語り継ぐ会」が絵本「みつわちょうにいきたいな」を発刊した。ブログやホームページもある。

元団地族の一人として、この街は訪れる度に感慨が深い。「隣は何をする人ぞ」。同じ建物を共有する隣人はもちろん、住民についてほとんど何も知らないマンション族に変わっている今、戦時下の苦労を共にした人々の住むこの町はなぜかむしょうに懐かしい。

この稿も、蕨市史を中心に、このような資料とともにインターネット上の多くの情報を参照させていただいた。

戦後70年を経た2015年、その名が残る近くの「三和公園」に「住宅営団がつくり、住民が育てたまち 三和町 1942~1966」という記念碑が「語り継ぐ会」の手で建てられた。(写真)