ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

秩父氏のこと

2010年05月20日 16時36分19秒 | 中世


「秩父市の薬局店主が10年続けてコラムで地元の魅力を紹介している」という記事を朝日新聞で見つけた。10年のことである。

「江戸東京開拓者は秩父氏の一党」とか「東郷元帥の先祖は秩父氏」といったことが書いてあり、小冊子にまとまったとある。

知らないことなので、さいたま市の中央図書館に頼んで、秩父の図書館から取り寄せてもらった。図書館に他館からの取り寄せサービスがあるのを知り、利用したのは初めてだった。ありがたいことである。

秩父ガスの広報誌に連載しているコラムと同じ「ふるさと発掘」というタイトルだった。寛政以来200余年秩父市で営業している片山薬局の店主の片山誠二郎氏の手になるものである。

「江戸開拓者」の中では、

東京都の開都は大田道潅が1457年に江戸城を築城した時とされる。
ところが実際は、道潅より約400年も前の平安時代に、荒川の源流から来た
秩父氏の一党(分家)である江戸、豊島、葛西の3氏が、現在の東京に進出してその所領は東京23区のほとんどと埼玉県南部、千葉県西部に及ぶ広大なものだった。
 
東京都はなぜ、この3氏を東京開発の恩人として顕彰しないのでしょうか。

と書いてある。、


「東郷元帥」のくだりでは、

(この)江戸氏から渋谷氏が別れ、東京の渋谷もその領地の一つだった。渋谷氏は鎌倉時代に九州に移り、薩摩の東郷に住んで東郷氏を名乗った。そして幕末に東郷平八郎が出た。

とある。そう言えば、豊島も葛西も東京の地名として残っている。

調べてみると、秩父氏は平安時代に、鎮守府将軍・平良文の孫、将常が、武蔵権守(ごんのかみ=長官)として秩父に定着して以来、その名を名乗った。

別な資料によると、その居館を秩父市中村から下吉田に移したころから名乗ったとある。

将常は桓武天皇六代の孫、桓武平氏である。秩父氏の館跡は、現在の吉田小学校周辺と伝えられている。樹齢800年のケヤキが残り、市の天然記念物の指定されている。

将常の孫、武綱は源義家に従って後三年の役を戦った。その子、重綱以降、一族は武蔵国各地に分散、その開発領主となった。武綱の子孫は畠山・豊島・江戸・葛西・河越氏等の有力な武蔵武士に分かれた。

重綱以降は、「留守所総検校職(るすどころそうけんぎょうしき)」(京都にいる国司の代理)を世襲、武蔵国の行政機関のトップであり、武士を統率・動員する権限を持っていた。

畠山氏からは畠山重忠が出た。

重綱の四男重継は、武蔵国江戸郷を相続して「江戸四郎」と称し、江戸氏を起こした。重継は、後の江戸城の本丸、二の丸周辺の台地上に居館を構えていた。

坂東(関東)武者というと、ふつう源氏を思い浮かべる。平安時代の関東は、「坂東八平氏」といわれる平家の舞台だった。その祖とされているのが平将常というわけである。

江戸は、秩父氏の子孫の江戸氏が開発、江戸城は埼玉県ゆかりの大田道灌が築城した。東京都と埼玉県のつながりは深くて長い。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿