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渋沢栄一 東京駅のレンガ

2010年09月02日 07時14分04秒 | 偉人①渋沢栄一

渋沢栄一 東京駅のレンガ

栄一は世界や日本のことに目を配りながら、郷土愛も強く、埼玉県や深谷市、血洗島のためにも奔走した。

JR深谷駅に降り立つと、ホームに「青淵深沢栄一生誕の地」と横書きで大書してある。「青淵」とは栄一の号。自宅近くの淵にちなんだもので、その碑が立っている。駅前に栄一の像が立っているのは当然だ。(写真)。

この駅は、堂々とした赤レンガづくりで、東京駅をしのばせる。「JR日本の駅百選」にも選ばれた。それもそのはず、深谷市上敷免にある「日本煉瓦製造株式会社」で作られたレンガを模して(レンガ風のタイルを貼って)造ってあるからだ。

1996年、旧駅の老朽化で改築の際、耐震性から本物のレンガが使えず苦肉の策である。

この工場は栄一が郷土のために誘致したものだった。この地は、利根川が堆積した土砂に恵まれ、古くから瓦の産地として知られた。明治22年(1889)に完成、敷地約19万平方m、日産5万個の製造が可能。明治末期には国内最大級の年3500万個を製造した。

人手に変えて機械力を使った日本初の洋式レンガ工場で、ドイツ製のホフマン式焼き窯三基などを備え、明治35年には従業員461人、日本鉄道(現JR)大宮工場についで県内第二位の大工場だった。

工場から深谷駅までの4.2kmの専用鉄道も引かれ、ここから出荷されたレンガは、東京駅を初め、日本銀行、赤坂離宮(現迎賓館)、旧司法省の本館、丸の内煉瓦街、東大、慶大図書館など多くの建築物に使われた。

赤レンガは、欧米の近代文明の象徴だったから、盛んに使われた。だが、大正大震災で大被害をこうむると、熱は急激に冷めた。

初めて栄一の足跡を訪ねたのは、国の重要文化財に指定されているこの煉瓦製造会社の「ホフマン輪窯(わがま)6号窯」などが、09年1月、初めて一般公開された時だった。この会社は06年まで約120年存続した。

「産業遺産」にはかねがね興味を持っている。英国の産業革命の発祥地マンチェスターをそのために訪ねたこともある。窯の中に入って、説明を聞くと、窯の頭上や壁面から粉炭を吹きこんで、約1千度の温度で焼いたとのことだった。

栄一の郷里への貢献の数々は、これまた数えきれない。秩父セメント、秩父鉄道、埼玉銀行の前身、武州銀行などの創立のほか、まだ交通機関が整っていなかった頃、埼玉県出身の在京大学生のために埼玉学生誘掖(手をとって指導する)会会頭として、東京・市ヶ谷に寄宿舎を設け、学資を貸与した。埼玉県人会会長に選ばれるのは当然ながら、旧制浦和高校の浦和誘致、埼玉会館の建設、郷土出身の塙保己一の遺徳をしのぶ温故学会会館(東京・渋谷)の建設にも力を尽くした・・・などなどである。

これほどの人物を、埼玉県はもう一度生み出すことができるだろうか。





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