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のぼうの城 行田市

2010年06月16日 16時51分05秒 | 名所・観光
のぼうの城 行田市

行田市の「さきたま古墳公園」で開かれた10年のB級グルメ第3回大会を見た後、“のぼうの城”を訪ねた。市の古墳公園や「古代蓮の里」には前にも来ているのに、城は初めてだった。

”のぼうの城“は、和田龍さんのベストセラー歴史小説のタイトルで、本当の名は「忍城(シノブジョウではなくオシジョウと読む)」。この城は、湿地帯を巧みに利用、守りやすく攻めにくい、関東きっての名城とうたわれた。豊臣秀吉の小田原攻めの際、周りの城が次々落ちていく中で、石田三成の水攻めに一月以上耐え抜き、最後まで落城しなかった唯一の城として知られる。

成り上がりの秀吉も、ゴマすりの三成も若い頃から嫌いなので、その攻撃に耐えた忍城のことは気に入っている。

“のぼう”とは、「でくのぼう」の略で、その時、たまたま城代(城主代理)になった成田長親のこと。長親は、城主の氏長の従兄弟。背の高い男で、のそのそ歩く姿からそのあだ名がついた。何事にも不器用で運動は特に苦手。馬にさえ乗れない。その男が、三成側の余りにも高飛車な降伏要求に怒って、戦う決意を固めたのである。

氏長は、従うように見せて、裏で豊臣側へ降伏を内通、城の主だった将兵とともに北条氏の小田原の籠城に参加していた。

三成の軍勢は2万を超すのに、長親側はその10分の1。三成は高松城の水攻めにならって、忍城を包囲、全長14kmの堤を築き、利根川、荒川の水を引き入れた。それでも落城しなかったので、「城が浮くためではないか」と“浮き城”の名が生まれた。忍城は、小田原陥落の後開城した

グルメ大会は、古墳公園前の駐車場で開かれたので、すぐ近くの日本一の円墳「丸墓山古墳」(直径100m、高さ16m)に登った。その名のとおり、丸い古墳で、春には頂上に桜が咲いて見事。その頂には、水攻めの時、三成が本陣を置いた。ここから見ると、忍城は目の前だ。

県のふるさと雇用再生基金を使ってハローワークなどを使って募集、12人からなる「忍城もてなし甲冑隊」を結成した。剣舞を披露、観光客との記念撮影に応じたり、甲冑の着付け教室も開く。忍城址の郷土博物館を訪ねたら、さっそく活動している姿が見られた。

10年9月には、古代蓮の里に隣接する水田に、「のぼうの城」のカバーイラストに描かれている長親や一般公募の「忍城」のデザインが3色の稲で浮かび上がった。関東最大の「田んぼアート」で、来年は日本一を目指す。

江戸時代、防衛拠点として重要だった忍藩には徳川家康の四男の松平忠吉が入った。10万石で「老中の藩」とも呼ばれ、親藩・譜代の城主の中から江戸幕府の老中、大老などの要職につくものが続出した。

明治維新とともに取り壊されたが。天守閣がなかったこの城の中心だった「御三階櫓」(写真)が復元されていて、市の郷土博物館になっている。見学者は100万人を突破した。

         


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