ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

金子兜太先生を聞く その3 

2012年07月31日 12時36分37秒 | 文化・美術・文学・音楽



「秩父」という地名が頭に刻み込まれたのは、大学一年の頃、ちょっとの間、合唱団に入って、流行のロシア民謡や日本民謡を歌っていた時だった。男にしては高過ぎる声が出るので、すぐ辞めた。

「新相馬盆歌」とともに記憶に残っているのが「秩父音頭」である。

この音頭の

 秋蚕(あきご)仕舞うて麦蒔き終えて秩父夜祭待つばかり

という歌詞は、先生の父親の金子元春氏が創った、ということを知ったのは、秩父地方の資料をあさり始めた最近のことだった。

先生の本によると、元春氏は、秩父の皆野町の農家の長男として生まれた。東京の独協協会中学校(現在の独協高校)に進み、後に「馬酔木(あしび)」を主宰する水原秋桜子と同級生だった。

医者になりたくなかったのに、「医者が一人は欲しい」という家族の懇願で京都府立医専(現・府立医大)を出て医者になった。卒業後すぐ上海に行き、東亜同文書院の校医をした後、皆野町で開業した。

1930(昭和5)年、明治神宮遷座祭があり、その祝いに各県の民謡を奉納して欲しいという要請があった。

当時の知事が、東京の埼玉県の学生寮で、元春氏と一緒と一緒にいたことがあったので、民謡が豊富な秩父の唄をと、元春氏に依頼があった。

秩父には皆に親しまれていた盆踊り歌があった。ところが、歌詞も踊りも卑猥そのもので、とても奉納できるようなものではなかった。

そこで元春氏が中心になって、歌詞は一般から公募して、「鳥も渡るかあの山越えて 雲のさわ立つ奥秩父」で始まる新民謡「秩父豊年踊り」ができ、踊りも手直しした。1950年に「秩父音頭」と改名された。

「秩父音頭」は、群馬の八木節、栃木の和楽節とともに関東三大民謡の一つに数えられる。

皆野町では毎年8月14日、「秩父音頭まつり」を開き、流し踊りが披露される。

その練習が毎晩、庭であったので、七七七五の五七調の音律が兜太少年の身体にしみ込んだ。

当時、秋桜子が「ホトトギス」を離れ、「馬酔木」を出し、自分の俳句観を推し進めようとしていた。

「ホトトギスの句には主観(自分の胸のうち)が足りない。ホトトギスの俳句は『自然の真』に過ぎず、『文芸上の真』の俳句を創りたい」というものだった。

元春氏は、元同級生の動きに刺激され、「馬酔木秩父支部」という句会を結成した。

「句会というと老人のもの」というイメージが強い。この句会は30、40歳代の男性が中心で、働いた後、自転車でやってきて、相互批評が活発だった。

「酒のない句会は句会ではない」と、兜太少年の母親が用意する酒を飲んでは喧嘩が始まる。

母親は兜太少年に「俳句は喧嘩だから、俳句なんかやるんじゃないよ。俳人と書いてどう読める。人非人だよ。人間じゃない」と、堅く禁じていたというから面白い。

兜太氏が旧制の水戸高校に入ってから俳句を始めたのも、このような秩父の句会の下地があったからだった。

「俳句は、社会と人間、とくに人間を書くものだ。花鳥諷詠などということはどうでもいい。人間諷詠だ」という戦後の氏の主張は、このような秩父の風土に根ざしている。

一茶への共感も、氏の骨太な句も秩父という産土がもたらしたのだということが分かる。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿