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秩父事件 指導者群像

2011年03月04日 12時36分00秒 | 現代 秩父事件・・・
秩父事件 指導者群像

秩父事件を率いたのはどのような人々だったのだろうか。

1884(明治17)年2月、自由党過激派の論客大井憲太郎が秩父で政談演説会を開いたのをきっかけに、秩父から入党者が増えた。

入党者の中には、秩父困民党の組織化に奔走した落合寅市、坂本宗作、高岸善吉の農民三人組や困民党幹部になった井上伝蔵の名もあった。

自由党、困民党指導グループで忘れられないのは大野苗吉(22)。蜂起の際の駆り出しで、「恐れながら、天朝様に敵対するから加勢しろ」と叫んで回ったので有名。本陣崩壊後の金谷の戦いを指揮、戦死した。

落合寅市(35)は下吉田村の半根古と呼ばれる集落(秩父では耕地と呼ばれた)に住んでいたので「ハンネッコの寅市」、坂本宗作(30)と高岸善吉(38)は上吉田村の道を挟んで斜めに向い合って住んでいて、「かじ屋の宗作」、「紺屋(こうや)の善吉」でとおっていた。三人とも自由党員で、副総理になる加藤織平の子分だった。

落合寅市は、本陣解体後、皆野近くの粥新田峠で鎮台兵らと戦いを交え、逃亡中に欠席裁判で重懲役10年。大井憲太郎の計画した大阪事件に関与して逮捕されたものの罪は問われず、秩父事件で服役中、大赦で帰郷、救世軍に入って87歳で死去。

明治末年、加藤織平の墓碑を建立。椋神社にも「志士慰安碑」を建てようと、募金活動をしたが、氏子の反対で実現しなかった。

秩父の困民党の組織者の中で困民党の八ヶ岳山麓の壊滅まで見届けたのは、伝令使の坂本宗作だけだった。蜂起が決まると、「悟山道宗居士」という戒名を白鉢巻に書きこんで、決死の覚悟だった。壊滅一ヶ月後、秩父の炭焼き小屋に隠れていたのを逮捕、死刑。

高岸善吉は、本陣解体後、東京に潜入して逮捕され、田代栄助と同日死刑になっている。

親分の織平は36歳。石間(いさま)村に住み、「質屋の良介」と呼ばれていた。長身で太り、堂々たる貫禄。「幹部中、人物の最もしっかりしていたのは、加藤織平だった」と取り調べの検事は語ったという。

「石間の親分」と呼ばれ、自由党員だったとされる。坂本宗作や井上伝蔵に困民党への参加を求められると、貸付金150円を放棄して参加した。井上伝蔵とも親交があった。織平の土蔵は石間のたまり場で、秩父困民党はここで結成された。大宮郷討ち入りの指揮をとった。織平は東京へ潜入したが、逮捕され栄助と同時に処刑された。

長野県南佐久郡相木村は、山と峠を越えると秩父から遠くなく、経済条件も秩父と似通っていた。この村から困民党に加わった大物は、参謀長になった菊池貫平(37)と軍用金集方になった井出為吉(25)である。二人とも自由党員だった。

菊池貫平は、裁判所の代言人(弁護士)を兼ねていた。困民党の軍律を定めたのはこの人である。本陣解体後、新総理として困民軍を率いて、群馬県を経て十石峠を越えて、長野県南佐久へ侵入、東馬流の戦いの後、姿を消したが、2年後甲府で逮捕された。

欠席裁判で死刑の判決を受けるが、憲法発布で大赦。逃走中の強盗教唆事件で無期懲役で北海道で服役したが、今度は皇太后崩御で減刑、明治38年出獄、郷里に帰り、余生を安穏に暮らし、68歳で死去。代言人だっただけに、法廷戦術にたけ、運の強い人だった。
 
井出為吉は、同村坂上で、代々名主を務める富農で村長の長男として生まれた。東京で学び、膨大な蔵書には、フランスの革命史、法律、政治の翻訳書があり、自由民権時代の地方の最高の知性の持ち主とされる。

法廷陳述でも「フランス法は高金利を禁ずる」と述べたという。村会議員、戸長(村長)も務め、南佐久地方では最も早く23歳で自由党に入党した。秩父困民党では軍用金集方。豪商などから集めた金の領収書に「革命本部」と書いたのはこの人である。

本部解体後、加藤織平らと東京に向かい、逮捕され、軽懲役8年の判決を受けた。憲法発布の恩赦で出獄。郷里の小学校教員や群馬県各地で役場職員を務めた。46歳で死去。




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