ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

狭山茶 所沢市の新茶まつり

2011年04月28日 17時39分15秒 | お茶・農業



夏も近づき、新茶の季節がやってきた。埼玉県では、茶といえば「狭山茶」だ。狭山茶というからてっきり狭山市で採れるお茶だと思っていた。調べてみると、「狭山丘陵で育つ茶」で、入間、所沢、日高市などのも含み、それどころか埼玉県茶の総称になっている。

明治維新後、生糸と並んで、横浜から緑茶が盛んに輸出されていた頃、この地域の茶のブランドとして「SAYAMA」と名付けられた。狭山茶の名が定着したのはこの頃かららしい。

知名度は高いものの、埼玉県の茶の生産量は全国の1%に過ぎないという。

茶の中では緑茶が一番好きだ。かねがね狭山茶の採れたての新茶を飲んでみたいと思っていた。ときどき狭山茶を買いに立ち寄る県庁構内の農林会館にある埼玉県茶業協会で尋ねてみると、「11年はまず手始めに4月27日、所沢市役所で新茶祭り、新茶試飲会が開かれる」という。

その日、西武線の航空公園駅東口で降りると、目の前のロータリーの茶園で事前に応募した人々による茶摘み体験の真最中で、これからすぐ近くの市役所中庭で手もみ茶保存会の実演があるとのこと。

もっけの幸いと後をついて行ったら、香り高い蒸した茶を手で揉む作業も見られたし、新茶のご相伴にもあずかった。

茶もみは今では、もちろん機械化されている。本当の手もみとは何か。蒸してさました葉を振りながら水分をとった後、底に和紙をはった「ほいろ(焙炉)=製茶に用いる乾燥炉」(火力は160度)の上で、力を入れて転がすように、休みなしに4時間もみ続けると細く濃緑の茶ができる(パンフレット「所沢の狭山茶」による)。

「4時間もかと」思わずうなる。大変な労働だ。力仕事をしたことがないので、握力がこの歳の平均の半分程度しかない自分は恥じ入るばかりだ。

今年は冬が寒く長かったので、桜も藤も開花が一週間から十日遅れた。このため恒例の新茶の販売は取り止めになっていた。

この日の朝刊(読売埼玉版)には、屋根が開閉式になっている日高市のビニールハウスで「山の息吹」という早生(わせ)種の初摘みがあった、との写真付きの記事が載っていた。シーズンは遅ればせながら始まったようだ。

新茶と一緒に、新芽と茶殻の天ぷらもつまみに出た。珍しいのでせっせと食べた。やはり来てみるものである。新芽の方には苦味があるので、「なるほどな」と思う。

もう一つ、「所沢の狭山茶」から教わったことがある。いつも疑問に思っていたのは、なぜ狭山茶の畑には「防霜ファン」があるのかということだった。若い頃、狭山事件の現場を見ようと、初めて狭山市近辺を訪れた時、驚いたのはこのファンだった。

茶の新芽生育途中にしばしば見舞われる四月から五月にかけての晩霜被害を防止するため、ということまではよく分かる。

真理は細部に宿る。晴れていて風がない霜が降るような夜は、茶の株のある高さが最も冷え込む。ところが、地上6mでは4~5度高くなる逆転現象が生まれる。

この上層の暖かい空気を高さ6~6.5mに設置した送風機を使って、下の茶の方に送って、茶の新芽が凍るのを防ぐのだ。

「地面近くは冷え込んでも、地上6mは暖かいのか」。そうか。「南方の嘉木」といわれた茶を、当時は北限とされたこの地で、栽培した先賢たちの知恵にただ感服するばかりだ。急速に設置が進んだのは1980(昭和55)年頃からだという。

茶の北限にはいろいろある。実際、北海道や東北にもお寺や自家栽培で細々と茶が植えられている所はある。このため、狭山茶が北限という場合は、「経済的産地の北限」、つまり、大規模に植えて経済的に採算がとれる生産地、「商業的なお茶の産地」という条件がついている。

厳密にいえば、北限の茶どころは、日本海側では新潟県北端の村上市で、江戸時代初期から四百年の歴史を持つ。太平洋側では岩手県陸前高田市にその名も「茶立場」という所がある。

気になっていたら、11年6月13日の朝日新聞夕刊に、『「北限の茶摘み」高校生が守る』という見出しが目に止まった。

陸前高田市気仙町の「気仙(けせん)茶」は、高台にある茶畑は残ったが、摘み手の農家が被災し、収穫のめどがたたなかった。そんな窮状を知った地元の高校の実習教諭の提案で、地元の高校生ら約20人が茶摘みを手伝った。製茶工場の設備は壊れたけれど、陸前高田の茶栽培を続けたいと、茶栽培家は語っている。

この地は、機械製茶の国内「北限」とされ、約90軒の農家が年間約2tの茶葉を収穫する

という記事だった。




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