ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

狭山茶 歴史

2011年05月16日 18時27分49秒 | お茶・農業



日本へ茶が初めて伝わったのは、臨済宗の開祖栄西禅師が、今から約八百余年前、鎌倉時代が始まろうとする頃、中国から種を持ち帰り、「喫茶養生記」を書き、栽培を奨励した時だとされる。

それが狭山地方にどのように伝わったのか。一説には、栄西から種をもらった弟子の京都の高僧、明恵上人(みょうえしょうにん)が、武蔵河越の地(現在の川越市)に栽植したのが始まりだと伝えられる。栄西は、宇治、駿河とともに武蔵も栽培適地の五か所の一つに挙げたという。

明恵上人は、もらった種を再興した京都・栂尾の高山寺に植え、宇治にも広めたと伝えられている。

川越市の東照宮の南にある中院には、「狭山茶発祥之地」と大書した石碑が立っている。慈覚大師円仁が喜多院の前身である無量寿寺を建立した際、京都から茶の種を持ってきて、境内で薬用として栽培を始めた。それが河越茶、狭山茶の起源たという。(写真)

また、ときがわ町の慈光寺でも茶を栽培し、飲んでいたようだ。

武蔵にいつ誰が伝えたのかは、はっきりしないが、「河越茶」が狭山茶の起源のようである。

川越市には史跡公園「河越館(かわごえやかた)跡」がある。桓武平氏の流れをくむ河越氏の館で、平安時代末から約200年間使われ、国指定史跡になっている。

この館の発掘調査で、茶碗や茶臼、風炉などの茶道具が出土、河越茶に河越氏が、かかわっていたことが分かった。

「武蔵の河越茶」が文献に現れるのは、14世紀の南北朝時代の書物「異制庭訓往来」で、京都栂尾などにつぎ、全国銘茶五場の一つに紹介されている。南北朝時代には全国有数の茶の産地だったようだ。江戸時代には、川越藩で茶会も開かれていた。

川越市では、河越館と河越茶のこのような関係から09年から「河越館跡」を史跡公園として整備する一方、河越茶に近いと思われる、地元の農家で栽培されてきた在来種と静岡茶、狭山茶の三種類約千株を育てている。

河越茶の茶摘み体験や試飲などのイベントで観光客に河越茶の存在をPR、川越観光のもう一つの目玉にしたい考えだ。「河越」が「川越」に変わるのは、江戸時代に川越藩ができた後のことのようだ。

11年5月29日には、川越城本丸御殿、喜多院、中院、川越館跡など七会場で大茶会を開いた。イメージキャラクター「河越茶太郎」もできている。

『狭山茶場史実録』(吉川忠八著)によれば、狭山茶が盛んになるのは19世紀以降で、1802(享和2)年、現入間市宮寺の宮大工もしていた吉川温恭(よしずみ)が、麦刈り作業中に雨に見舞われた際、茶らしい木を見つけ、製茶してみたら、お茶独特の香りがした。

同じ宮寺に住む親友の村野盛政に相談して、茶の栽培を始め、先輩の宇治の蒸し製煎茶の製法を取り入れて、河越茶を狭山茶として復活させ、江戸で飲まれるようになった。

これに協力したのが、江戸の茶商山本家の六代目山本嘉兵衛徳潤だった。「狭山茶」の名は、村野盛政が山本嘉兵衛に相談したところ、宮寺あたりの地名が「狭山」だったので、その地名を取って「狭山茶」としたという。

宮寺の出雲祝神社には狭山茶業復活の記念碑として「重闢茶場碑(かさねてひらくちゃじょうのひ)」が1832(天保3)年)に建立され、狭山茶の歴史を伝える史蹟になっている。

明治の初め、狭山茶の歴史の中で忘れてはならないのは、日高市生まれの高林謙三である。

川越の開業医だったのに、お茶に注目した。当時、日本の輸出品は、生糸と茶しかなかったからだ。時間と労力のかかる従来の茶の手もみ法では、費用ばかりかかって、量産は無理なので、蒸しから乾燥まで機械が全部行う製茶機械の完成を目指した。

まず、回転円筒式のあぶり茶、生茶葉蒸し、製茶摩擦の三つの機械を発明した。この三つは、特許法が施工されたばかりの1885(明治18)年、日本の特許の2、3、4号となった。民間の発明家としては初めての特許取得だった。

1897(明治30)年には、結核と貧困に悩みながら、妻子の手助けもあって、ついに念願の製茶機械「高林式茶葉粗揉(そじゅう)機」を完成させ、日本の茶業界の産業革命に寄与した。今でも改良を重ねて使われている。

日高市のJR八高線の高麗川駅近くに「製茶機械発明者高林謙三出生地」の碑が立つ。





最新の画像もっと見る

コメントを投稿