ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

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中山道伝馬(てんま)騒動

2011年03月07日 18時14分34秒 | 近世


秩父事件のことを調べるため、分厚い県や市町村史をめくっているうちに、埼玉県では江戸時代を通じて約90もの農民騒動が起きていることが分かった。

この中で最も大きいのは1764(明和元年)に発生した「中山道伝馬騒動」である。江戸時代最大の農民一揆で、参加者は桶川宿で最大規模に膨れ上がった。この事件の背景を知るためには、まず伝馬とはなにかを説明しなければならない。

埼玉県は、川は荒川、利根川、道は中山道や日光街道に依存して発展してきた。今でも、県の主要な市はこの道沿いにあることからも明らかだ。伝馬はまさしく、中山道、日光街道、それに日光御成街道の副産物だった。

中山道には多くの宿場があった。宿場には、公用の荷物を運ばせるため、人と馬が常駐している「問屋場」があった。前の宿場から来た荷物を次の宿場に運ぶためである。人馬の数は中山道では、一日に人足50人と馬50頭、日光街道はその半分ずつと定められていた。公用だと無料、一般の旅人は有料。徳川家康が始めた制度である。

中山道には加賀藩など39藩の参勤交代の行列が通った。行列は100から2千人にのぼった。数が多いと、問屋場の定数ではまかないきれず、不足した人馬を周辺の村から出させる「助郷(すけごう)」という制度があった。4月から9月までが多く、農繁期と重なって、農民の大きな負担になっていた。

この年幕府は、日光東照宮で翌年150回忌が営まれるのを理由に、中山道と日光街道で助郷村を増やす計画(増助郷=ましすけごう)をたて、街道から十里四方の埼玉、群馬県の195の村の村役人に本庄宿に出頭するよう命じた。

この年は、朝鮮通信使が来訪、これまでにない高額な負担金を支払わされたばかりだった。いつも人馬を徴収される定(じょう)助郷村では、「国役金」と呼ばれた負担金が免除されるのに、増助郷村では免除されない。

本庄宿の増助郷村に指定された村の農民は不公平感にたまりかねて12月16日、本庄宿に近い児玉郡十条村(現美里町)の川原に集まり、幕府の老中に増助郷中止を願い出る一揆を起こした。幕府が禁じている強訴(ごうそ)である。

一揆勢は本庄宿で上州(群馬県)勢と合流、江戸を目指して本庄、深谷、熊谷、鴻巣、桶川宿と南下した。幕府は、熊谷宿で忍藩を使って追い散らそうとしたものの、押し出しと打ち壊しが繰り返された。

宿場ごとに数は増え、桶川宿では5、6万(10数万とも)人になった。江戸時代の農民暴動の中で最も大規模な「明和の伝馬騒動」(天狗騒動、武上騒動=武蔵と上州)である。中山道沿いの日光街道沿いの長野、栃木県の村々でも蜂起が起きた。

幕府は、攻勢に押され、増助郷を中止せざるをえなかった。29日、桶川に関東郡代で農民の信頼が厚い伊奈半左衛門忠宥(ただおき)が撤回を伝え、一揆は収まったかに見えた。農民の全面勝利である。

だが続いて、年末から翌正月にかけて宿場以外の、足立、比企、高麗、入間、埼玉郡の各地でも、豪農や商人を狙う打ち壊しが始まった。川越藩の藩兵などが出動、八日ごろにはすべて鎮圧された。この二つを合わせ、参加総数では200余村、20万人余とも言われる。この騒動は天草以来の大騒動と言われた。

伝馬騒動は、増助郷反対だけではなく、貧農たちの不満が爆発した事件で、その後も県内各地で打ち壊しは続発した。

首謀者だった児玉郡関村(現美里町関)の名主・遠藤兵内(ひょうない)が1766年、43歳で死罪・獄門の刑(さらし首)になったほか、360余人が流刑、入牢、追放などの刑に処せられた。その三分の二以上が村役人だった。

平内は義民として崇められ、美里町では関観音堂にある宝筐印塔を「義民遠藤兵内の墓」として文化財に指定している。

近くの児玉神社には「義民遠藤兵内お宮」(関兵霊神社)があり、近くの川の橋のたもとに「義民遠藤兵内之碑」が立っている。(写真)

騒動から百年後、「正一位関兵霊神」の官位が与えられ、神として、美里町関の観音堂に祭られている。

当時の関村の名主・中沢喜太夫が作詞した

「昼夜暇なき御伝馬なれば 民の苦しみ諸人の難儀」「吾はもとより諸人の為に 捨てる命は覚悟の上と・・・」

という「兵内くどき」は、今も歌い、踊り継がれている。



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