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城下町岩槻の鷹狩り行列 

2013年11月05日 19時40分36秒 | 近世
城下町岩槻の鷹狩り行列 さいたま市岩槻区

さいたま市の区制施行10周年を記念して約400年前、鷹狩りが大好きだった徳川家康が岩槻を訪れた行列が13年11月3日午後、岩槻の目抜き通りになっている元日光御成通(おなりみち)で再現された。

到着した家康一行を岩槻城主が出迎える趣向で、本物の鷹を腕に載せた本職の鷹匠(たかじょう)10人 (写真)のほか、公募した約70人が目付け役、槍持ち、腰元などに扮し、沿道約1kmを埋めた約1万人の見物客を喜ばせた。

実際に放鷹(ほうよう)や、槍持ちの槍合わせ、腰元のなぎなた踊りなども披露された。

チョウゲンボウやハヤブサなどの鷹類を空に放すと、大きさがほぼ同じのカラスが驚いて、「すわ、縄張り荒らしか」と仲間を大挙呼び集めて戻ってくる珍しい場面も見られた。

興味を引かれたのは「岩槻黒奴」が歓迎の奴振りを披露したことだった。

奴(やっこ)は、武家の身分の低い雇い人で、外出する際、荷物の運搬などの雑用をこなした。農民や町民が雇われてなることが多く、参勤交代の時には多数必要になるので、臨時雇いもあった。

「岩槻黒奴」は、背中に白い菱形を染め抜いた黒木綿の半纏(はんてん)を着ていたため、その名がある。岩槻総鎮守・久伊豆(ひさいず)神社の祭礼などで、若衆が粋な黒半纏を着て 神輿の先に立ち練り歩いた。

最近は久伊豆神社は「クイズ」とも読めるので、「クイズ神社」として有名になり、ファンや関係者が訪れる。」

江戸後期には「岩槻黒奴」は、「日光の赤奴」「甲府の白奴」と並んで「日本三奴」とされていたのに、1954(昭和29)年を最後に姿を消した。

さいたま商工会議所青年部の有志が「伝統の灯を消すな」と立ち上がり、08(平成20)年に54年ぶりに復活、岩槻まつりで「奴振り」を披露、久伊豆神社の秋の例大祭でも奉納した。

スタートした時には11人だった。10年には「岩槻黒奴保存会」も発足、数も70人を超え、岩槻保育園の園児や岩槻商業高校インターアクトクラブの協力を得て、色々なイベントに参加している。

家康は小さい頃から鷹狩りが大好きで、一生に1千回以上行ったと言われる。死んだのも鷹狩りの後だった。当初は大名の動向把握や民情視察などが狙いで、日帰りもあれば、3か月かかるのもあったとか。

江戸に移ってからは、娯楽や健康増進色が強まり、江戸近辺の現在の県内の岩槻、鴻巣、忍、川越、越谷、大宮、浦和、戸田などに出かけることが多かった。

その休養や宿泊のため、御殿や御茶屋が各地に設けられ、岩槻周辺では越ヶ谷御殿がよく利用された。

県内の江戸に近いところは将軍家、その外側は徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)などの御鷹場に指定され、現在の浦和や大宮は紀伊徳川家の御鷹場になっていた。

家康の鷹狩り行列は、東海から関東にかけての関係地で実施されていて、岩槻に先立ち10月20日に鴻巣市でも、出身の俳優照英が家康に扮して、行われている。


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