ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

関東郡代 伊奈氏

2010年11月15日 10時11分14秒 | 近世



大学時代、映画に凝っていたので、西部劇のかたわら時代劇もよく見た。時代劇でよく登場するのは「悪代官」で、それ以来、代官は「悪」と決め込んでいた。

ところが最近になって、「神様・仏様」と農民を初めとする庶民から慕われた代官が昔の埼玉県にいたことを初めて知った。関東郡代の伊奈氏である。

代官とは、御存知のとおり、天領(幕府直轄地)を支配し年貢徴収などの民生をつかさどった役人のこと。伊奈家は、陣屋(代官のいる所)を初代の忠次が関東代官頭として現在の伊奈町に、三代目忠治(ただはる 忠次の二男)から十二代目忠尊(ただたか)までが関東郡代として川口市に置いた。

伊奈氏は、現在の埼玉県の入間・比企地方を除くほとんどを、配下の代官などを通じて1590(天正18)年から1792(寛政4)年まで約200年間支配した。代官頭、関東郡代とは、諸代官を統括、交通、治水、土木、新田開発などの中心的な役割を担った。

伊奈氏のことを初めて知ったのは、伊奈町にある県民活動総合センターの講座に数回通った時だった。「伊奈備前守忠次公をご存知ですか。今年は忠次公没後400年の年です」というパンフレットで、10年10月31日に開かれたシンポジウムへの呼びかけだった。

裏面にはその一生を描いた漫画もついていた。忠次は、三河(愛知県)の生まれで、徳川家康に仕え、1590年、家康が関東に移された際、現在の伊奈町小室と鴻巣市にかけての武州小室・鴻巣領1万石を与えられ、小室に伊奈陣屋を構えた。伊奈町の名は忠次にちなんでいる。

さいたま市南浦和から東京外環自動車道にそって植木の里、川口市安行に向かうと、川口東インターチェンジのすぐ南に赤山城跡(同市赤山曲輪)がある。忠治以降12代までが陣屋を構えた所で、赤山陣屋跡とも呼ばれる。

陣屋全体の総面積は、東西、南北ともに1400mの正方形型の約60万坪で、当初の規模は大阪城外堀とほぼ同じスケールだった。二重の堀に囲まれ、家臣団の屋敷や菩提寺などもあり、城下町の感じだったという。

今では緑に囲まれた最高のハイキングコースで、記念碑(写真)前には足を休める所もある。

なぜ伊奈氏は「神様」「仏様」とまで慕われたのか。

政治とは古来、水を治めることだった。家康が関東に移ってきた頃の埼玉県は、「坂東太郎(利根川)」も「荒川」もその名のとおり暴れ放題。埼玉県東部から南部にかけては、低湿地帯で洪水の常習地だった。

利根川は江戸湾に流れこみ、荒川は、吉川市付近で利根川に合流していたというから驚きだ。坂東太郎と荒ぶる川(荒川)が増水して合流すれば、果たして何が起きるか。容易に想像がつく。

土木と治水・灌漑にたけた忠次と2代目忠治は、治水のため、「利根川の東遷」と「荒川の西遷」に着手した。

忠次亡き後、忠治らの後継者は最終的に、利根川の本流を東側の常陸川に結びつけ、千葉県銚子、つまり太平洋まで誘導、東京を利根川の洪水から解放した。荒川については、熊谷でせき止め、西側の入間川を通じて隅田川に流し込んだ。

優れた土木技術で堤を築き、用水を引き、新田を開発した。米の収穫は大幅に増えた。見沼溜井も忠治によって造成された。

忠次は、農民に桑、麻、楮(こうぞ)などの栽培を勧め、養蚕や炭焼き、製塩などを奨励、関八州(関東地方)は忠次によって富むとさえ言われた。

1707(宝永4)年、宝永の富士山噴火の際には、7代目忠順(ただのぶ)が小田原藩の避難農民の救済に奔走した。忠順は飢えた農民のために駿府にあった幕府の米蔵を開放、棄民を助けたが、幕府の追及を受け、切腹して死んだ。

1783(天明3)年、12代忠尊(ただたか)の時には、浅間山が大噴火、「天明の大飢饉」を引き起こした。江戸でも暴動や一揆が起こり、「天明の打ち壊し」が始まった。忠尊は幕府の下賜金で諸国から米穀を買い集め、庶民に廉売、危機を救った。

ところが、後継者問題や忠尊の行跡が幕府に疎まれ、1792(寛政4)年、伊奈家は関東郡代の職を解かれ、改易された(平民に落とし、領地・家屋敷を取り上げる)。赤山陣屋は徹底的に破壊された。

墓地は、忠次、忠治は鴻巣の勝願寺、4代目以降は、赤山陣屋跡近くの源長寺にある。

関東郡代・伊奈氏のことはもっと知られていい。伊奈町では18年3月、「伊奈忠次ー関東の水を治めて太平の世を築くー」と題するPR映像を作成、町のホームページや動画投稿サイト「ユーチューブ」で閲覧できるようにした。

町の人口は18年1月1日で4万4699人。伸びが鈍化しているため、24年に4万7000人にする目標を掲げている。このため忠次のPRを進め、移住・定着を促進、国の地方創生推進交付金を活用して、16年度から18年度までの3年間で総事業費約4150万円をかけ、観光に生かす事業を展開している。

伊奈氏屋敷跡がある丸の内地区の観光スポット化をめざし、地元の竹のチップをまいて散策路を整備しているほか、17年12月には蓮田市の神亀酒造と協力して、忠次と長男の忠政、二男の忠治から命名した日本酒3本のセット「伊奈氏3代」を発売、さらに「忠次せんべい」の開発、書籍も作成する予定。(この項日経による)

 

 



最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
名門伊奈家 (市村貞夫)
2017-03-02 21:32:52
伊奈家はウチの親戚です。何故なら私の母の実兄が伊奈家に養子に入りました。故伊奈四郎と申しますが、あの日本青年館の元理事長でした。又、時々NHKで伊奈忠次の功績を称え放映しますが、凄く光栄に思います。子孫は現在横浜在住ですが、お墓は日本橋に有ります。又そのお寺そのものも伊奈家が創りました。今更ですが、もっと世間に知らたらなと思い書きました。
返信する

コメントを投稿