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NHK大河ドラマ「八重の桜」とさいたま市

2013年12月21日 20時23分18秒 | 近世


埼玉県は江戸に近かったせいもあって、歴史的に有名な人物と意外なつながりがあることがままある。

13年のNHKの大河ドラマ「八重の桜」の主人公、八重に関係する二人もそうだったのには驚いた。

八重の属した会津藩の初代藩主で、後に幕府で副将軍として名君と讃えられた保科正之は、さいたま市緑区大牧に知行地を持っていた武田信玄の二女に当たる見性院(けんしょういん)が養育した。

また、八重が結婚した同志社大学の創立者、新島襄の母親(つまり八重の姑)のとみ(登美とも)は、同じさいたま市の浦和区仲町(当時は中町)の生まれだった。

保科正之が大牧とつながりがあったのには深い事情がある。

長野県高遠町立歴史博物館資料叢書6号の「名君保科正之公」(春日太郎編)などによると、正之の父親は徳川2代将軍秀忠だった。母親になった神尾静(お静、お志津とも)は、秀忠を育てた乳母付きの女中の中でも最も身分の低い下女だった。

しかし、目鼻立ちが整い、しかも非常に利発な娘だったことから、秀忠に見初められ、寵愛を受ける身となり、一度流産した後ふたたび懐妊した。正之は1611(慶長16)年、お志津の姉の嫁ぎ先である神田で生まれた(「会津松平家譜」)。秀忠は「幸松丸」と名づけた。

大牧生まれという説もあるようだ。

秀忠の正室お江は、織田信長の姪で、6歳年上の姉さん女房。ひどい焼きもちやきで、秀忠も恐がって正式には側室を持った記録がないというほどだった。

お江はすでに3人の男の子を生んでいたのに、その嫉妬を恐れた秀忠は命を奪われるのを警戒して見性院にお江に知られないように幸松丸の養育を頼んだ。

秀忠は最初の懐妊中から老中に相談して静を預かってくれるように見性院に頼んでいた。幸松丸を預かった時、見性院は70歳を越していた。

見性院は、徳川家康から大牧に6百石の知行地を与えられていた。ここには幸松丸より4歳上の息子を持つ武田家の家臣が住み、管理していた。

見性院は知行地ではなく、現在の八王子市上恩方町にあった金照庵などに住んでいたので、幸松丸は見性院に連れられ、大牧を訪ね、その息子と遊ぶこともままあった。

幸松丸は7歳の時、武家の教育を受けるため、見性院が知っていた高遠城主の保科正光の養子になった。

その後、高遠藩、山形藩、初代会津藩主を経て幕府で異母兄・家光、ついで家綱を補佐、名君の道を歩むことになる。

1622年に死んだ見性院は、大牧の静泰寺(現・緑区東浦和)に葬られた。正之は境内に霊廟をつくり、霊を慰めた。現在の墓石は、後に会津藩によって建てられ、県の指定史跡になっている。(写真)

一方、新島襄の母親とみは、中山道浦和宿中町の穀物問屋「鍵屋」の中田六之丞の長女として生まれた。江戸に奉公に出て、3番目の奉公先の板倉藩(福島)で、家老と安中藩(群馬)士だった新島襄の祖父・新島弁治が親しかった縁で、その息子新島民治と結婚した。

娘4人の後、初めて生まれた長男が新島襄である。襄は米国から帰った後の改名だ。幼名は「七五三太(しめた)」だった。

とみは、新島襄が八重と結婚後、襄の自宅離れに住み、洗礼を受け、襄の死後6年の1896(明治14)年、90歳で死んだ。

「名君保科正之公」が読めたのは、たまたま訪れたさいたま市の東浦和図書館で、「八重の桜」にちなんで保科正之関係の図書を展示していたため。新島とみの話は、さいたま市シニア大学の校友会報にあった片岡恭子さんのエッセイに触発されたものである。


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