小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えられています。
16 世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、 関東支配の拠点として次第に拡張されました。 豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造された、城下町を囲む延長9Kmに及ぶ総構の出現により、城の規模は最大に達しました。
北条氏滅亡後、徳川家康の家臣大久保氏が城主になると、石垣を築くなど北条氏の城郭に改修の手を加えます。しかし、大久保氏が改易されると城は破却されます。 その後、寛永9年(1632)に稲葉氏が城主になると大規模な改修工事が実施され、城の姿は一新します。
稲葉氏三代の後は、再び大久保氏が城主となり、地震や富士山の噴火による被害を乗り越えて、小田原城は関東地方の防御の要衝として幕末まで存続しました。
小田原駅の東西自由通路を東口に出ますと南側に小田原城を望むことが出来ます。
東海道五十三次の9番目の宿場町として栄えた小田原宿であり、城下町としての雰囲気を楽しみながらお城に向かいます。
ノンビリ歩いても10分ほどで城址公園北側の入口に到着します。 本丸広場に向かい坂を登ると、覆いかぶさるように天守が見えてきます。
本丸広場から望む天守閣。
明治3年(1870)に小田原城は廃城となり売却された後、次々と解体されました。 城址は御用邸時代を経て地元自治体に払い下げられ現在に至っています。 現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と三の丸土塁・総構・八幡山古郭の一部が国の史跡に指定されています。
本丸広場から南東側の常盤木門へ進みます。
常盤木門は江戸時代の本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に作られていました。 元禄 16年(1703)の元禄地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に多聞櫓と渡櫓から構成される桝形門形式で再建されましたが、明治3年(1870)の小田原城廃城の際に解体撤去されたようです。
常盤木とは常緑樹のことで、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繫栄することを願って常盤木門と名付けられたといわれています。
常盤木門を抜け階段を下ると、本丸東堀に架かる常盤木橋(赤い橋です。)を渡り二の丸広場に出ます。
江戸時代の小田原城本丸の周囲は堀に囲まれていました。 本丸東堀は発掘調査の結果、幅 20m以上の規模を持つ水堀で現在よりも5m以上深さがあったようです。
本丸に出入りするには、この常盤木橋を渡り常盤木門から入るルートと、北側に位置する相生(あいおい)橋を渡り鉄(くろがね)門から入るルートがあり、こちらの常盤木門から入るルートが正面入口であったようです。
御茶壺曲輪から見た銅(あかがね)門。
現在の銅門は昭和 58年(1983)から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年(1997)に復元されたものです。
銅門は小田原城二の丸の表門で、南側の馬屋曲輪やお茶壷曲輪は住吉堀によって隔てられています。江戸時代には馬出門土橋(現在のメガネ橋)から城内に入り、銅門を通って二の丸御殿や本丸、天守閣へと進むようになっていたようです。
正面入口のメガネ橋を渡ると見える一番最初の馬出門。
三の丸から二の丸に向かう大手筋(正規登城ルート)に位置する門になります。
今回は正規登城ルートの逆を歩いてみました。 メガネ橋を渡り、お堀端通りからお堀越しに隅櫓と天守閣を遠望しました。
桜の時期も素晴らしい小田原城址公園であります。
※ ご覧頂き、ありがとうございます。
わざわざ、訪問感謝いたします。
そうなんです。大分変わっていると思います。 私も以前の二の丸広場には小学校が、そして北入口の御用米曲輪には野球場が有ったことを覚えています。
発掘調査が進み、古文書、絵図などを参考に昔の城郭に近づいています。
お城の向かう駅前通りも城下町風になりました。
当時とは変わっていることと思いますが
ゆっくりと廻り俳句を詠んだこと
懐かしく思い出し嬉しくなりました。
ありがとうございました。
エッ! 小田原城に来て頂けたんですか?
確か?晴れの日だったと思いますが、早朝ではまだ人出もなく素晴らしい天守をご覧頂けたのではと思います。
三面相さんの旅行記事を楽しく拝見させて頂いております。
ありがとうございます。
何時も内容の素晴らしい記事に感心しています。
5月末の日曜日の早朝に小田原城に行ってきました。
少しだけの時間でしたがここの写真の場所はすべて覚えています。