日本近代化の幕開け 明治 5年(1872)に日本で最初の官営模範工場・富岡製糸場が誕生しました。 ヨーロッパと日本の技術が融合してできた世界最大規模の製糸工場は、近代日本を象徴する建造物として百数十年の時を経た今も圧倒的な存在感を示しています。
当時の日本は明治維新を迎えたばかりでした。 殖産興業政策を掲げた政府が急務としたのは、輸出品の要であった生糸の品質改良と大量生産を可能とする器械製糸工場の導入と推進でした。
江戸時代末期に幕府は鎖国を解き外国と交易を開始し、安政 6年(1859)に横浜などを開港しました。
その当時の主な輸出品として生糸と蚕種の需要が急激に高まりましたが、その頃の日本は伝統的な手動の繰糸法である座繰製糸であったため、良質で質の揃った生糸を大量生産できませんでした。 こうした問題を解決する目的で国の資本による模範器械製糸場の設立が明治 3年(1870)2月に決定され、政府は生糸に精通したフランス人「ポール・ブリュナ」を指導者として契約を締結しました。
左は繰糸所(そうしじょ)の入口、右は繰糸所(国宝)建物全景。
繰糸所は、繭から生糸を取る作業が行われていた場所です。 創業当初はフランス式の繰糸器 300釜が設置され、世界最大規模の製糸工場でした。 小屋組には「トラス構造」という従来の日本にない建築工法を用いています。 そのため、建物内部は中央に柱のない広い空間が保たれています。さらに採光のための多くのガラス窓や、屋根の上に蒸気抜きの越屋根が取り付けられています。
現在は、昭和 41年以降に設置された自動繰糸機が保存されています。
ブリュナらは、当時養蚕が盛んであった長野、群馬、埼玉の各地を実地調査した結果、製糸に必要な繭と良質な水だけでなく、工場建設に必要な広い土地、近くで蒸気エンジン用ボイラーの燃料である石炭(亜炭)が確保できたことなどから、群馬県富岡の地が選ばれました。
右の大きな 2階建て建物は東置繭所(ひがしおきまゆじょ)で奥の建物は明治 35年~昭和 13年築の社宅です。
東置繭所(国宝)は明治 5年(1872)建築。 長さ104.4m:幅12.3m:高さ14.8m 1階は事務所・作業場などとして使い、2階に乾燥させた繭を貯蔵していたようです。 建物は、木材で骨組みを造り、壁に煉瓦を用いた「木骨煉瓦造」(もっこつれんがぞう)という工法で建てられました。 「木骨煉瓦造」とは、木材で骨組みを造り、壁の仕上げに煉瓦を用いる建築方法。
煉瓦の積み方は、煉瓦の向きを長い面と短い面を交互に並べています。この積み方を日本では「フランス積み」と呼んでいます。
使用された煉瓦は、日本の瓦職人が甘楽(かんら)町福島に窯を築いて作り、煉瓦積みの目地には下仁田町の青倉、栗山産の石灰で作られた漆喰を使いました。 また、礎石には甘楽町小幡から切り出された砂岩が使われているとのことです。
首長館(重要文化財) 明治 6年(1873)建築:延床面積 320坪
指導者として雇われたフランス人「ポール・ブリュナ」が家族と暮らしていた住居だそうです。後に建物は、宿舎や工女に読み書きや裁縫などを教える学校として利用されました。
製糸場の運営にあたっては、ブリュナの人選によってフランス人の生糸検査人、技術者、繰糸教師、医師らが雇入れられ、富岡製糸場の設立や操業に関わりました。
検査人館(重要文化財) 明治 6年(1873)建築
生糸の検査などを担当したフランス人男性技術者の住居として建設されました。後に改修され、現在は事務所として使用されています。 2階には、皇族や政府の役人が訪れた際に使用された貴賓室があるそうです。
建築資材は、日本で調達できない一部の資材以外は近辺で調達されました。 木材や礎石は近隣の官林や山から切り出し、煉瓦はフランス人技術者のもと瓦職人が隣町で作りました。 一方、日本人の体格に合わせた 300人取り繰糸器械や動力用の蒸気エンジン、窓ガラスや鉄製の窓枠などはフランスから輸入しました。
工女館(重要文化財)明治 6年(1873)建築
日本人工女に、器械による糸取の技術を教えるために雇われたフランス人女性教師の住居として建設されました。
明治 5年(1872)2月より工女募集が行われましたが、順調には集まりませんでした。 そこで初代場長の尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)が娘の勇(ゆう)を率先して入場させた結果、32道府県から工女が集まったとのことです。
左は診療所で、右の学校の様な建物は寄宿舎です。
官営当初期の富岡製糸場で働く工女の生活は、労働時間は季節により異なるものの、1日平均 7時間 45分で日曜は休み、給料は繰糸技術の等級により格付けされた月給制、また宿舎や病院が場内にあり、食費や医療費は国が負担するなど、当時の日本では先進的な労働環境であったようです。 工女の中には、技術習得後は故郷に戻り指導者として活躍する者もおり、器械製糸技術の伝播に貢献しました。
西置繭所(国宝)明治 5年(1872)建築。 長さ104.4m:幅12.3m:高さ14.8m 現在保存修理の工事中でした。
東置繭所と同様、2階を繭の貯蔵庫として使用し、1階部分は当初、蒸気機関の燃料用の石炭を置く場所や繭をより分ける場所などとしても使われたようです。
明治 5年(1872)に誕生してから 1987年の操業停止まで115年間生産を続けました。 2005年には富岡市の所有管理となり、敷地全体が国史跡に、2006年設立当初期の 9件の建造物が国重要文化財に指定されました。 また、2014年 6月には「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産登録され、同年 12月には重文のうちの 3棟、東西の置繭所と繰糸所が国宝に指定されました。
世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」は、高品質な生糸の大量生産に貢献した、19世紀後半から 20世紀の日本の養蚕・製糸の分野における世界との技術交流と技術革新を示した絹産業に関する遺産です。
日本が開発した生糸の大量生産技術は、かつて一部の特権階級のものであった絹を世界中の人々に広め、その生活や文化をさらに豊かなものへと変化させました。