Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「サクリファイス」アンドレイ・タルコフスキー(再観)

2007-10-16 22:10:23 | cinema
サクリファイス [DVD]

紀伊國屋書店

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OFFRET
1986スウェーデン/フランス
監督・脚本:アンドレイ・タルコフスキー
撮影:スヴェン・ニクヴィスト
出演:エルランド・ヨセフソン、スーザン・フリートウッド、アラン・エドワール


何度目かわからないけれど再観す。

この映画はタルコフスキーの作品のなかでは評価が微妙らしく、端的にいうと「メッセージを映像表現に優先させた」という、なんだか映画的敗北のような評価を受け勝ちのようである。

けどワタシはなんか好きなんである。
時には冒頭のタイトルロールを観ただけで胸がいっぱいになり観るのをやめてしまったりする。

タイトルロールからして実はロールではなく、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画「東方の三賢人」の部分のクローズアップが延々映るなか、バッハのマタイ受難曲からのアリアが冒頭から終わり近くまで流される。

絵的に退屈極まりないことは、パゾリーニのタイトルに匹敵するだろう。

で、基本的には全編がこの単調さに支配されている。他のタルコフスキー作品での、渋いながらもよく観ると色彩豊かな映像表現とは異なり、グレーを基調とした起伏のないゴトランド島海岸風景、暗いブラウンを基調とした室内、暗いグレーに塗りつぶされた夜の景色、陰影を欠いた色調が延々と続く。

唯一画面に色彩があふれるのは、アレクサンドルがアンドレイ・ルブリョフの画集を繰るシーンであるが、光が紙面に反射して絵そのものは淡くかすんでしまう。
レオナルドの「東方の三賢人」にしてもガラス越しの反射光で絵はほとんど見ることができない。

タルコフスキー得意の4大元素の饗宴もしっかり健在なのだが、その色彩がいつもと違うのだ。

この色彩から遠く隔たろうとする意思はなんだろう。

***

気のきいた答えはないだろうけれど、ワタシの感じるところで言うなら、一本の枯れ木を立てるシーンに始まり、その枯れ木に水を運ぶシーンで終わるこの映画の、絶え絶えな、しかし細く強くつながっていこうとする希望は、この枯れ木に象徴される、枯れた、乾いた、世界の果てに行き着きそこから再生していこうという類いの希望、なのだと思う。
それは世代を超えて受け継がれたいと望む希望のあり方であって、忘我でもなく自己愛でもない、外的でも内的でもない、その中間にたたずもうとするもの。

それは我々になじみの深いはずの わび・さび なのだ。

むしろこの映画ではじめてテーマは訴えることをやめ、佇み、次の時代へと息をつないでいこうとしている。
タイムカプセル、あるいは繭のようなもの。
そんなものとして映画を構想したのではないだろうか。


世界の終末を前に、救済をもたらす儀式は内的で精神的なものになるのだ、という物語はすでに「ノスタルジア」でもあるいは「ソラリス」にもさかのぼれる。

しかし「サクリファイス」でも繰り返されるその物語は、今度は精神的な深みの表現を欠き、違う種類の、古代の壁画のような、東欧のイコンのような、二次元に描かれた遠い出来事のように思える。
この遠い昔の出来事を遥かな未来に託している。
そんな「達観した」映画なのだと思う。

****

達観など映画に求めないぞっ
という気持ちを持ちつつも、
時折この東欧水墨画の前で正座をしてみたくなる。
そんな感じなのであります。



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