Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「憂鬱と官能を教えた学校」菊地 成孔,大谷 能生

2010-06-11 01:35:14 | book
憂鬱と官能を教えた学校 上---【バークリー・メソッド】によって俯瞰される20世紀商業音楽史 調律、調性および旋律・和声 (河出文庫 き 3-1)
菊地 成孔,大谷 能生
河出書房新社

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憂鬱と官能を教えた学校 下---【バークリー・メソッド】によって俯瞰される20世紀商業音楽史 旋律・和声および律動 (河出文庫 き 3-2)
大谷 能生,菊地 成孔
河出書房新社

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憂鬱と官能を教えた学校---【バークリー・メソッド】によって俯瞰される20世紀商業音楽史

ワタシにとっては「Tipographicaの」菊池成孔氏と、この人についてはよく知らない大谷能生氏による、映画美学校での連続講義録。
バークリー音楽学校を中心に20世紀の商業音楽の基本的な方法論となった「バークリーメソッド」について、その成立と役割を歴史的に俯瞰し位置づける観点と、理論の概要に踏み込む実学的観点の二面で攻める書。

巷に出回っているポップス音楽理論書に書かれていることは、ワタシもそれなりにかじってはいるのだが、それがバークリーのメソッドを源泉としていて、20世紀中盤以降に急速に世界を席巻した理論なのだという意識はなかったので、そういう歴史的なことを考える点では面白い本である。
慣れ親しんでいるいわゆるコードネームもバークリーメソッド以前にはなかったんだなあと感慨ひとしお。

歴史ももちろん、ただナディア・ブーランジェが体系付けた理論をもとに誰々が学校を作って~とかいう年表的なことだけではなく、その動きを支えた音楽や受容する耳に変化とはなんだったかをざっくり考えるので、歴史を知ると同時に音楽の構造ってなに?とかいうことを考える契機にもなるし。

音には音響と音韻という二面があり、平均律の成立以降音韻面での体系化=音楽の記号化が飛躍的に進み、その帰結である等価交換性の完成(この言葉はワタシがいま考えた)形としてバークリーメソッドをとらえること。
そして20世紀終盤に、
●録音・サンプリング技術などを反映しふたたび音響的な音楽(と聴き方)が起こっていること
●バークリーメソッドで規定している例えば古典的な協和/不協和の感覚(ディソナンスレベル)の変動
●カウンターカルチャーとしてのブルーズの台頭
●リディアンスケールを中心とした非バークリーメソッド的理論の登場
などなど状況が変動していることを踏まえ、バークリーメソッドが未来永劫万能なものではなく、終焉を迎えつつあるのかもととらえること。
こうした批評性を持って歴史を考察するのがこの本の面白いところで、理論に埋没してしまうのでなくその外側と未来に開かれた音楽観を持てというのが第一の内容だろう。

なので、ある程度商業音楽理論に精通したぜ、とか、これから理論を学ばないとダメだなと思っているような人には、その立場を相対化する意味で一読をおススメするという感じですかね。

実際にスケールや和声の扱いを解説するところは、既にある程度理論を知っている人には復習的に思えるかもしれない。逆にまったく更で望む人にはわかりにくいかもしれない。でもこの実学的部分を省いてしまうとただの教養書になってしまう。我々が前世紀でどっぷり親しんだ音楽にいかにバークリーメソッドが染み渡っていたかということを実感する手がかりとして、具体的な理論が、あ、あの曲のあの部分はそういうことか!と思い至る実感とともに立ち上るのを楽しむのがいいと思う。

******

西洋音楽史的な部分はちょっと強引かつ性急かなあと思わなくもない。
平均律の成立からナディア・ブーランジェまでまっしぐらに古典的音韻の記号化が進んだようにも思えるが、実際平均律という調律が普及してたとえば教会のオルガンの調律に平均律が採用されるのはずっとあとのことだし。
平均律の完成をバッハの例の曲集に求めるのだが、実際バッハは平均律で調律をしてはおらず、むしろ変な調を弾いたときの「音響的」効果を計算に入れていたと思う点で、まだ音響派だったとも言えるだろう。
平均律的な調性の民主化?も、ある意味鍵盤楽器の世界の話で、調律の構造上いまだ純正の響きを奏でることを避けられない(避けなくたっていいんだけど)管弦楽器を使った音楽も大きな広がりを見せて、そこでは現代に至るまで調性ごとに異なる響きを踏まえた曲作りが行われてもきただろう。

まあおそらく著者はそういうことは承知の上で、限られた時間内でグレゴリオ聖歌からエレクトロニカまでの進展をまとめて見せたのだろうし、そのなかである程度の単純化は恐れずにつかむべき思想を抽出して見せたということだろう。

そういう点ではその抽出の業は見事で、その思想は学ぶ価値があるし、その一方で音楽史とはそういうモノだったのだと一面的に理解したつもりにはならないほうがいいということだろう。


あと、読んでいるとタイトルの意味が何となく分かってくる。
よく考えるよな。


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