【某所に書いたものを編集転載】
1970年公開のルネ・クレマンによるサスペンスドラマ
予告編などはなんとなくブロンソンを中心としたマッチョな暴力(風の)シーンをわざわざ選んでるだろ的な編集だったが、
本編はそれほどバイオレンス前面ではないし、悪者をやっつけてスカッとする類の暴力でもない。
が、出てくる男どもが一人残らずろくでなしなばかりか、出てこない男どもすら一人残らずろくでなし(苦笑)で、
物語の背景にある諸々も含め、ろくでなし男ワールドに蹂躙されてきた女性たちの話として観ると、
潜在というか内在というか隠されたというか裏側にあるというか、
そういう偏在する暴力性が濃厚に描かれた映画だとも思われる。
ブロンソンはその中ですこーしだけマシな動きをする(特に最後の方で)。
機知の中で決して白状しない強さを得ていくメリーのあり方を認めていくような感じか。
このようなこともきっかけに
世界はこういうろくでなしワールドから少しずつ抜け出してきたのかもしれない。
(とは思うが、まだまだ感はあるよな。。。)
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そういう重い感じの上にあって、
サスペンスとか主演二人の機知に富んだ会話とかは、
映画として豊かな形を与えるための要素の一つという気がする。
しかし、それらが映画の主題として二の次だということでは決してないということも、
映画の楽しみの本質なのかも。
映像も音も物語も人の動きも声も風景も光も影も何もかもを無数の細部として積み上げて、全体としてなにかが出来上がる。
それを全部ひっくるめて観て受け取るのが楽しいのだな。
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冒頭からずっと降る雨のびしょびしょ感は、
メルヴィルの「リスボン急行」だったかしら?の大雨、
あるいは「シェルブールの雨傘」などを思わせ、
ワシ内フランス映画の印象ぴったり。
浜辺まで普通に車で行ったり、
遺体発見現場だが子供たちとか家族連れとかが周りで遊んでいるとか、
それもなんかあまり天気が良くない感じとか、
これもフランス映画(これは「男と女」のイメージかしら)
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ルネ・クレマンあまり観たことがない。
「禁じられた遊び」は重くて記憶から消えてるし、「パリは燃えているか」「太陽がいっぱい」は観たけどもう覚えてないし。。。
と思ったら、そうそうジャック・タチの「左側に気をつけろ」があったわね、と。
マルレーヌ・ジョベールはエヴァ・グリーンのお母さんだが、似ていない。。
マリカ・グリーンという人もこの映画に出ていて、関係者かしらと思って調べたら、エヴァの叔母さんだそうで。
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