![]() | ジャン=リュック・ゴダール 映画史 全8章 BOX紀伊國屋書店このアイテムの詳細を見る |
1998フランス
監督・編集:ジャン=リュック・ゴダール
第3章(2A)「映画だけが」鑑賞。
前半は評論家セルジュ・ダネーとの対話が、映画からの映像や音声とコラージュされる。
会話は意外とまっとうなもので、評論家は、ヌーベルバーグの世代だけが映画を歴史的にとらえることが出来たのだと説く。キャリアをスタートさせたのが50年代(=20世紀の中間点)であること。批評からスタートしたことによって、何が何の前で、何が何の後であるのかを自覚できたこと。ブレッソンもトリュフォーもそれに気づいていたけれど、ゴダールだけが突出して歴史家的であったこと。映画史的観点を持つ作家はヌーベルバーグ以降ヴェンダース世代までであることなどなど。
それに対するゴダールの受け答えは、彼の映画そのもののようだ。言ってることはわかるけど、総体ではなんだか煙にまかれるという・・・
で、まえに、20世紀の発明=映画+ファシズム+コミュニズム みたいなことを書いたけど、ここではゴダールは映画は19世紀の産物である、というようなことを言っている。しまった^^;
もちろんゴダールは額面どおり映画の発明時期のことを言っているのではない。
ひとつは、映画の起源を「投影」の発明に見る。像をなにかに投影するという発想。この発想は、ナポレオン軍の兵士がロシアに虜囚されている牢獄の中で発明したという。牢獄の中のフランス人に映画の起源をみるというのはなかなか刺激的である。
あとは勝手な憶測だけれど、映画の隆盛に伴って、映画は19世紀的な精神、ドラマ・ストーリー・説話に奉仕するようになった。そういうことも言っているのではないかしら。ドストエフスキーが提供していた心理的スペクタクルを、20世紀は映画が担うようになったのだ。
ほかにもゴダールは、ヌーヴェルヴァーグ以降の若い観客は見るべき映画が急増して追い付かない、という指摘にたいして、「いや、むしろ見るべき者は減っている。10本程度じゃないか?映画は10本、指も10本だ。」なんてかましてくれる(笑)やるなあ。
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後半はうってかわって、美しいコラージュの世界。
ジュリー・デルピーがボードレールを読む顔のアップを中心に、映画からの引用、絵画からの引用、実写映像のコラージュ。夢みるような映像世界だ。
「映画だけが」歴史たりうる唯一の芸術だ。という命題をなぜかゴダールは過激と優しさで彩っている。
丸く抜き取られた映像は船に乗り、船着き場までそっとみちびかれ、「つづく」とクレジットされる。なんだか幸せな終わり方。
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