第九 ベートーヴェン最大の交響曲の神話 (幻冬舎新書) | |
中川 右介 | |
幻冬舎 |
年末に向け気分を盛り上げるために読んでみました。
ベートーヴェンの第九の成立の経緯、
初演頃のややこしいやり取り、
ベートーヴェン没後の扱われ方、
後の時代の受容と演奏史
20世紀にかけての神格化
と、第九の受容史で貫かれているのだけれど、
初演当時のオーケストラ事情や
その後の演奏家、指揮者、オーケストラの人間事情や
評論の世界の動向
政治との関わりかたの変容
など、19世紀から20世紀の社会情勢を映し出してもいる。
本の構想が面白いということでもあるが、
このような構想を持てる1曲というのもなかなか第九以外にはそう見つからないだろう。
第九(を初めとするベートーヴェンの交響曲)が
初めはかなりの難物、変わった作品として受け取られていたというのも印象的。
その後のオーケストラや指揮者の充実により
曲の真価に迫る演奏が可能になってくるとともに曲が受け入れられ、
それとともに評論においても曲のもつ精神性や時代的な意義などが論じられ
次第に曲の含意が大きく広くなっていく様子が面白い。
ワグナーが多くの第九論を書き
ドイツ精神の反映としての第九という観点を切り開いて行くくだりも
ワグナー的な誇大さを思うと面白いのだが
それが後の第三帝国的なドイツ民族主義の高揚において第九が利用されることの布石となっていることを思うとただ面白がってはいられない。
この点は先日見たジーバーベルク「ヒトラー」でのワグナーの扱われかたを思い出すところである。
ワグナーは作曲家であるとともに論客でもあり、ドイツ至上主義的な精神論の礎を作った一人であることが、第九との関わりのなかでよくわかる。ジーバーベルクはこういう側面を理解していたのだと思う。
一方で第九は労働運動や共産主義運動においてもここ一番で担ぎ出される曲でもあることがまた面白い。
第九がそういう汎用性をもつメッセ-ジを湛えているということでもあるが
政治というのはそのようなものを敏感にとらえて利用するものなのだと実感する。
政治のポピュリズム的な節操のなさに第九が翻弄されてきたということなのだろう。
そのほかにも、第九を有名に、あるいは神格化するうえで貢献した指揮者の人間模様も
とても面白い。
ワグナー、メンデルスゾーン、ビューロー、マーラー、フルトヴェングラー、トスカニーニ、カラヤン、バーンスタインなど。
彼らは指揮者として第九にどのように取り組んで、それが第九の受容にどのように影響したのか、もさることながら、第九を巡って、例えばフルヴェンとトスカニーニが険悪な関係になるなど、人類みな同胞のメッセ-ジを持つ第九を愛する人たちとは思えない泥臭さがあって実に面白いね。
その他には第九の日本初演はいつなのかを史実を追って考えてみたり。
第九が新書1冊書ける曲であることをしっかり証明した本でした。