函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

平清盛、忠正の影が…

2012-04-09 | 歴史

どうやら祇園社事件を境に朝廷でも清盛に替り家盛が重用されて

いるようです

ドラマでは清盛に反旗を翻し、平家の棟梁になるべく宣言していま

したが、平家の期待が家盛に集まるのは仕方の無い事ですね。

微罪で済んだとはいえ事件後の清盛は謹慎状態だったのかも知れ

ません

 

家盛の跡継ぎ宣言に無言で言葉を呑み込む忠盛、清盛に託した武

家の躍進と実子・家盛に対する愛情の狭間で揺れ動いたのでしょう

か??

真に迫った演技でしたね。

それに比べ『戻ったら、せめて一度だけでも当たり前の母として笑っ

てくださいませ。』と言った家盛の意味が分かりません。

宗子から十分な愛情を受け育ってきたはずの家盛、ちぐはぐな台詞

のような気がしました

 

摂関家の栄華を取り戻すため頼長に利用された家盛、気付くのが少

し遅すぎたようです

『鳥羽院に忠義を尽くすのでは…』と頼長に問いかけるくだり、全く政

治的センスの欠片もありません。

色仕掛けで??頼長に取り込まれた家盛ですが、この時期には叔父

の忠正も摂関家の家人として働いていた筈です。

摂関家の力を背景に昇進を続けていた忠正、家盛が摂関家に近づい

た背景には忠正の影がちらつきます

 

鳥羽法皇の熊野詣に家盛が指名されているところを見ると、この頃には

清盛と家盛の立場が接近もしくは逆転していた可能性が大きそうです??

清盛にもかなりの焦りがあった筈です

史実では…

病にも関わらず法王に同行したため病気が悪化、遂には帰らぬ人とな

ったと書かれていますが、20代半ばとも23歳とも言われる享年、一体

どんな病で亡くなったというのでしょうか??

不可解です??

一方の清盛にとってはこれほどラッキーな事はありません

偶然かも知れませんが、あまりにもタイミングが良過ぎます。

清盛が首謀者とまでは言いませんが、家盛の棟梁としての地位に納得

出来ない家人もいた筈です

清盛が家盛の死を望んでいたかまでは何とも言えませんが、少なくても

棟梁となるべくして生きてきた清盛及びその側近たちには家盛の台頭を

快く思っていなかったのではないでしょうか。

 

清盛の弟といえば経盛・教盛・頼盛・忠度など歴史に名を残した人物がい

ますが、家盛は次男(長男かも??)の割には露出が少ないですね。

早死にしたせいでしょうが、家盛こそ平家隆盛の鍵を握っていた人物だと

僕は思っています

 

もし家盛が生きていれば保元の乱の様相もガラッと違った筈です

崇徳帝の子・重仁親王の乳母となっていたのが家盛の母・宗子。

忠実、頼長側には叔父・忠正もおりおそらく家盛は崇徳帝側についた筈で

す。

棟梁となった家盛が崇徳帝側につけば勝敗は火を見るより明らかですね

祇園社事件で汚点を残した清盛も従わざるを得ません。

重仁親王が即位し崇徳帝の院政が始まった筈です。

しかし、清盛が築き上げた平家の繁栄を家盛が出来たかと言えば疑問です

清盛の知略なくして平氏の繁栄がなかったと思うからです。

逆説的な言い方になりますが、家盛が早死にしたおかげで平家が繁栄した

とも言えます。

平家隆盛の礎を築いたのは家盛だったのかも知れませんね

 

 

 

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