函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

どうする家康、似た者同士!!

2023-06-26 | 歴史

100年以上続いている戦国にあって、あらゆる事を

話し合いで決め、慈悲の心で結び付いた巨大な国を

創り上げるとは… 

聖徳太子が言ったとされる、和を以て貴しと為すに

も通じる考え方なのでしょうか

人間の欲に翻弄されたのが戦国時代、特に権力欲だ

けは綺麗事ではすみません 

残虐性も伴っているので始末が悪いのです

確かに、話し合いで結論が出せれば争いは起こらな

いのかも知れませんが…

結局、愚かな人間は、武を以てしか平和な世を成す

道しかないのでしょうかね? 

そう言う意味では、瀬名の行動は綺麗事にしか映り

ません 

宗教的な臭いすら感じてしまう僕なのです 

戦国末期から400数10年経ている現代まで、面々と

同じ事を人間は繰り返しているのです

裏を返せば、争いが無ければ人間が人間でなくなる

ものなのかも知れません

ところで… 

武田と敵対する家康と、武田と組もうとする信康 

二人の考えの違いは修復不可能な状態まで来ていた

のでしょうか? 

ドラマの様に心が壊れ掛かっている信康ではないの

です。 

武田と組むしか徳川の家名を残す道は無いと確信し

ていた筈です

勝頼の父・信玄も嫡男・義信との意見の対立から義

信を自害に追い込んでいます 

信玄も家康も一代の英雄ですが、奇しくも嫡男は父

親に反抗して自害に追い込まれているのです 

全くの偶然でしょうか? 

義信も信康も愚将ではないと思うのですが… 

全くの凡人であれば偉大な父に反抗などする訳があ

りません。 

二人共、そこそこ能力が有ったればこそ父と向かい

合ったのではないのでしょうか? 

いかに親子と言えども、父と子、並び立たずと言

事なのでしょうかね 

そういう意味では、義信と信康は似た者同士と言え

なくもありませんよね

 

 

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どうする家康、母親の性なのでしょうかね?

2023-06-19 | 歴史

たとえ今は敵であっても、絶えず調略は行われて

いるもの。 

だからと言って裏切った事にはなりません 

水野信元はたんに信長に難癖をつけられた訳です

信元は尾張と三河の境を領有していましたが、一

介の国衆ではないのです 

この時既に24万石の大名となっていました

尾張の喉元を領有しているのですから、信長とし

ても何時かは排除したいと考えてもおかしくあり

ません 

領地が増えれば増えるほど発言権も増します。 

ようは、信元は信長にとって邪魔な存在でしかな

くなっていたのです 

信元は家康の命で誅殺されたと言われています。 

ドラマでは、そんな家康を見て信康が「何でもか

んでも信長の言いなりで情けない。父上は臆病で

卑怯だ。」と罵声を浴びせていましたね。 

さすがに言い過ぎの感が否めませんが、家康と信

康の対立が表面化していた事だけは間違いなさそ

うです 

 

いよいよ瀬名が動き始めます 

武田の密使・穴山梅雪との密会。 

何やら不穏な空気が流れ始めましたね 

心を病んできている信康を救う道は武田の軍門に

るしかないと悟ったのでしょうか? 

「そなたかやると言うのなら、全てを掛けて成す

覚悟がある。」と… 

亀姫の婚儀も決まり、後は信康の生きる道を自分

が見つけてやれればと思ってのでしょうか? 

もし、武田との内通が成就したとしても、信康に

平穏な暮らしが来るとは思えません

亀姫は奥平に嫁ぎましたので、何れは兄妹で戦う

事になるかも知れません 

親としてそれだけは避けたいと思うものですが、

信康に対する深い愛情が瀬名を盲目にしていたの

でしょうか? 

母親の性なのでしょうかね?

 

 

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どうする家康、信玄の呪縛から逃れられない勝頼!!

2023-06-12 | 歴史

長篠城を救援に来た織田徳川連合軍ですが、馬房柵

を作るばかりで一向に動こうとしません 

怖気づいたと思った勝頼は、長篠城に二千、鳶ノ巣

山砦に二千、計四千の兵を残し設楽原に布陣したと

言われています。 

その兵一万一千 

勝頼が言っていた様に、織田徳川が揃う千載一遇の

チャンス 

天下を取れなかった父・信玄と自分は違うとでも言

いたかったのでしょうか? 

それにしても、おお戦の割には兵の数が少な過ぎま

勝頼の慢心でしょうか? 

どうも、織田徳川連合軍の兵数を見誤った感じがし

ます 

信長も援軍を密かに隠していたとも言われています

だとすれば、信長の戦略勝ちと言って良いのかも知

れませんね。 

ドラマでは三千挺の鉄砲を三段にして武田軍を壊滅

させたかのように描かれていましたが、最近の研究

は一千挺だったと言われていますよね 

武田軍も早くから鉄砲を取り入れているので、鉄砲

の威力を軽視していたとも思われません 

 

信長の策で、酒井忠次には信長の馬廻り衆を含め四

千の兵を与え、武田軍を尻目に大きく迂回して鳶ノ

巣山砦を急襲

壊滅的な打撃を与えたと言われていますね

浮足立った軍ほど脆いものはありません 

砦の向かい側にある長篠城包囲軍も我先にと落ち延

びていったと言われているので酒井忠次の完勝です 

因みに、この時忠次が率いていた徳川勢の殆どは東

三河の国衆達です。 

軍の構成だけ見ても岡崎VS浜松の対立が深刻だった

と勘繰りたくなりますよね 

 

武田軍は挟み撃ち状態になってしまいますが、浅井

朝倉軍に挟み撃ちになった信長は素早く撤退しまし

たよね

しかし、勝頼は突撃する道を選択 

再起を期した信長と、一発勝負に掛けた勝頼の違い

でしょうか? 

武田家最大の領地を得ていた勝頼の慢心でしょうか? 

父・信玄を超えたとの若さによる錯覚でしょうか? 

秋山や馬場など前線にいた勇将の殆どを失ってしま

います 

因みに、真田信之・幸村の実兄もこの戦いで討ち死

にしています

その後の勝頼は、身内の木曽義昌や穴山梅雪に裏切

られ、最後も身内の小山田信茂に騙され天目山の露

と消えてしまいます 

信玄の子として生まれなければ、歴史に名を遺す様

な知将になっていたも知れません

思うに、勝頼は信玄の呪縛から逃れる事が出来なか

ったのではないのでしょうか? 

もし、真田昌幸の進言を受け入れ、岩櫃城に籠城し

ていれば武田家の復活もあり得たかも?と個人的に

は強く思っています 

外様を信用しきれなかった勝頼の判断ミスだと…

 

設楽原の戦いは、三千丁の鉄砲を三段構えで撃ち武

田の騎馬隊を翻弄したと言われていますが、前後か

ら攻撃を受けて大敗したと見る方が自然な感じかし

ます 

間接的には、奥平信昌が長篠城を死守したからこそ

の勝利とも言えますが… 

その後、奥平家を家康が優遇したのはこの辺りに要

因がありそうな気がしている僕なのです

 

 

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どうする家康、日の本一の足軽!!

2023-06-05 | 歴史

落城寸前の長篠城

今川→武田→徳川→武田→徳川と目まぐるしく主を替えた

奥平ですので、流石にもう一度武田へ寝返る事も出来ず

万事休す 

もはや徳川へ援軍要請するしかなさそうですね 

武田軍に包囲されているので抜け出すのは至難の業ですが

殆どの家臣が躊躇する中、手尾挙げたのはうだつの上がら

ない鳥居強右衛門です 

その強右衛門が歴史を大きく動かす大仕事をするのですか

ら解らないものです。 

ドラマでは… 

武田に捕まり一度は奥平を裏切る強右衛門ですが、亀姫の

事を思い出し援軍が来ると叫んでいましたね 

人間らしく迷い、情に絆され、武士としての誇りも有る人

物として描かれていましたが、個人的には、ドラマの中で

の強右衛門が好きになってしまいました

流石、古沢良太 氏の脚本ですね。 

 

家康は古参の二人、酒井忠次に東三河を石川数正に西三河

を任せていたようです

浜松には家康が、岡崎には信康がいましたが、嫡男の信康

がこの時点で家督を継いでいた訳ではありません 

岡崎には国衆達の屋敷もあったと言われていますので、家

臣達の分断も加速していた感じもしますね

信康は当然の様に家督を継ぐのは自分だと思っていたので

しょうが、武田に蹂躙されている状態で当主の様に振舞う

のは早過ぎます

浜松VS岡崎の対立の構造が好むと好まざるとを得ず進むの

世の常です

若い信康が理解できなかったとしても仕方ありませんよ

危機に面している徳川にとって、分断している状態を早急

に是正いなければならないところまで来ていた気がします 

話し合いで解決するには時間が掛かり過ぎます。 

家康には時間が無かったのでしょうかね。 

 

同じ事が武田家にも言えます。 

信玄が残した古参の家臣との折り合いが上手くいかず、結

局最後は家臣に裏切られ自刃しています 

禍の芽は早く摘んだ方が徳川家にも纏まりが出来るという

ものです。 

荒療治ですが、後の事を考えると信康への対応は絶妙のタ

イミングと言えなくもありませんよね

ところで… 

日本一有名な足軽と言えば、鳥居強右衛門ですね 

奥平家の足軽だったと言われていますが、長篠城での働き

により子孫は現代まで続いているみたいです 

奥平家の家老にまで上り詰めたと言われていますが、強右

衛門の働きがあったればこそ 

足軽とはいえ、武士としての覚悟と勇ましさ、殆ど死にに

行くような任務だったので当然誰も手を挙げる者はいなか

ったと言われています。 

本多忠真や夏目広次にも似た武士としての覚悟なのか?完

遂出来る者は自分しかいないという思いなのか? 

危機に直面した人間の途方もない意志のようなものを感じ

る僕なのです 

日の本一の武将と言えば真田信繁ですが、日ノ本一の足軽

と言えば勿論、鳥居強右衛門しかいませんよね

 

 

 

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