数万に膨れ上がった軍勢を引き連れいよいよ鎌倉に入る頼朝
比企をはじめ畠山など続々と頼朝軍に加わります
皆、何とか勝ち馬に乗ろうと必死ですよね
平家軍として戦っていた大庭景親や伊東祐親はさぞかし驚い
た筈
数十名で安房に逃れた頼朝一行が、僅か一カ月半で大軍で戻
って来るとは…
戦意喪失もいいところ
もはや投降するしかありません。
一人気勢を上げる大庭景親ですが、「既に勝敗は決していま
す。」と言っていた梶原景親の冷静な分析の方に分がありそ
うです
それにしても…
遂に登場した源義経
惨忍さと狂気を併せ持つ無邪気な武将
騙し討ちをして何の罪もない者の胸を打ち抜く様を見るにつ
け頼朝が排除しようとした事が間違っていない気もします
いよいよもう一人の有力源氏・武田信義をも味方につけ富
士川の戦いへと…
西国では飢饉が発生し兵糧を調えるのにも無理があり、兵
の士気もかなり低かったようですね
平家軍2万と言われていますが、戦いの前から逃亡した兵
もかなりいて実質3、4千位の兵数だった可能性も…
富士川の戦いは、武田信義の軍の動きに水鳥が反応し一斉
に飛び立つのを見た平家軍が、敵の夜襲と勘違い、一目散
に逃げた為の敗北と言われていますが、正面から両軍が戦
ったとしてもおそらく源氏軍の圧勝だったでしょうね
そういう意味では、最初から戦いにの勝敗が決していたと
言っても過言ではありません
ところで
義時は執権になるまで北条姓を名乗る事はありませんでし
た
江間小四郎義時、名前を見る限り北条の跡取りではなかっ
たと言う事にります。
兄・宗時が石橋山の戦いで戦死した後も江間義時を名乗り
続けます。
まるで北条家の分家あつかいですね?と言うか分家そのも
の
13人合議制のメンバーで北条家からだけ二人選ばれたとよ
く言われますが、当時の感覚からすれば、北条家1名、江
間家1名と言う事になります。
宗時が亡くなった時点で義時の弟もおりましたので、おそ
らく時政は北条宗家を義時の弟に継がせたかったのでしょ
うね