函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

真田丸、昌幸の遺言!!

2016-09-26 | 歴史

戦国の世では領土を守り抜くことさえ至難の業、しかも信濃の小豪族

に過ぎなかった真田家を大名にまで押し上げた昌幸の才覚は並外れた

ものがあったのでしょうね

昌幸がもし?大軍を動かせたならどのような戦をしたのでしょうか?

興味が尽きません

関ケ原のおり、黒田如水はあっという間に九州を占領して行きますが、

昌幸も如水と同じように甲斐に攻め込んでいたかも知れません

尊敬してやまない武田信玄の旧領を回復していた可能性すらあるのです

西軍に味方した時、三成から上田・小県・沼田は勿論、旧武田領も勝手

次第のお墨付きを貰っています

長期戦になれば上杉は勿論、伊達・佐竹・最上など元々徳川に心から臣

従していない大名と連携し一大勢力を形成、徳川と対抗出来たかも知れ

ません

昌幸にとっては返す返すも半日で関ケ原の戦いが終わった事が悔やまれ

ます

天地人と言いますが、昌幸にはどうやら天の時が無かった様です

やはり、全てが揃わなければ天下に名乗りを挙げるのは難しいのでしょ

うね。

 

九度山には家臣16名が同行したと言われていますが、普通の生活が出来

れば、和歌山藩から50石の扶持、信之からの仕送りもありさほど困らな

かった筈なのです

しかし長年しみついた大名生活を変える事など昌幸には出来なかったの

借金もかさみ頻繁に信之に手紙を出しています

昌幸が信之に対してお金のむしんをしたのは10年間で20回、半年に1度

は手紙を送っていた事になりますね。

そんな昌幸ですが、いずれ徳川VS徳川の戦いが起こると予言していたと

も言われています

その時、どう戦うか!!死の直前に信繁に秘策を伝授していたとも言われて

いますが、眉唾物臭い感じですね

 

死に臨んで昌幸からの遺言

「徳川に勝てるただ一つの道、10年掛けてわしが考えた策じゃ…」

真っ先に尾張を制し徳川が攻め来たら頃合いを見て尾張を捨て近江まで引

く……と。

一通り聞き終えた信繁。

「父上ならきっと上手く運ぶでしょうが、私には場数が足りません。」と

返答する信繁に対し「わしの策に場数など必要ない!!」と言い切る昌幸。

蟄居の後も戦の事だけを考えていたでしょうか??

戦をする為に生まれて来たといっても過言ではなさそうです

 

大坂の陣で信繁が大阪城に入城したと聞いた家康は、手を掛けていた戸

がガタガタと震えるほど動揺

「それは親か?子か?」と家臣に確かめたと言われています。

既に昌幸は亡くなっているのを知っていたにもかかわらず…

家康の狼狽振りが見て取れます

いかに昌幸が家康に恐れられていたかを物語る逸話ですね

 

個人的ですが…

第一次、二次の上田合戦を見ると昌幸と楠正成とだぶって見えます。

赤坂城や千早城に籠りゲリラ戦で敵軍を蹴散らした正成と、敵を誘

き寄せ側面やら後方からの攻撃は奇想天外

強きを挫く戦いは痛快ですね


 

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真田丸、何故?斬首だったのでしょうか!!

2016-09-19 | 歴史

徳川軍に大勝利を収めた昌幸ですが、西軍が半日で負けた

事が中々理解できない様です。

年齢からしても最後の大戦に掛けた昌幸の無念さが滲み出

ていましたね

信繁に諭され後を信幸に託しますが、開口一番「この役立

たずが!!」と信幸の微妙な立場も考えず罵声を浴びせます

直後に「済まぬ!!」と頭を下げる昌幸ですが、犬伏での約

束を思い出したのでしょうかね?

頭では分かっていても心がついて行かなかったのでしょう

か?

自分達は勝ったのに敗軍の将として流罪になる事を受け入

れるにはもう少し時間が掛かりそうです

 ところで…

関ケ原の後、逃亡していた石田三成・小西行長・安国寺恵

瓊は捕まり引き回しの上処刑されましたが、何故?切腹で

はなく斬首だったのでしょうか??

関ケ原の戦いは豊臣VS徳川ではありません。

家康はあくまでも五大老筆頭であり秀頼の後見人

豊臣政権の筆頭として処分を下した事になります。

建前上、三成ら三名は秀頼の名を騙って騒乱を起こし、豊

臣政権を混乱に貶めたという理由で処刑されたのです

五大老で表面上西軍の大将だった毛利輝元や上杉景勝も減

封にはなりましたが、処刑はされていません

関ケ原で西軍の主力として戦った宇喜多秀家ですら島流し

の処分で済んでいます

自害した長束正家は別として家康の目的は大々名を潰す事

ではなく、豊臣家への忠誠心が強すぎる原理主義者達の一

掃が目的だったのではないのでしょうか??


通説では…信幸が自身の恩賞と引き換えに昌幸・信繁の助命

を嘆願したとされていますが、流罪になったのにはそれなり

の訳があった様です。

関ケ原の戦後処理では首謀者以外で処刑された武将はいませ

二回にわたって徳川軍を翻弄した昌幸ですが、関ケ原の戦い

では西軍に加担した一武将にすぎません。

そもそも二度の上田合戦では昌幸に運が味方しただけの様な

気もします。

第一次では石川数正の出奔、第二次では戦局が思ったより早

く動いたため局地戦の上田城攻めに関わっている時間が無く

なっただけ…

絶妙なタイミングのお陰で昌幸は命拾いしたとも言えます

長期戦になれば間違いなく真田家は滅亡していた筈。

昌幸は強運の許に生まれたといっても良いのかも知れません

しかし、その強運も長くは続かなかった様ですね

昌幸は西軍が負けたのを知ると東軍に恭順の意を表し投降し

ます

首謀者でもなく投降した武将を豊臣政権筆頭の家康が処刑す

る筈がないからです

昌幸の強運は二回の上田合戦で使い果たしてしまったのでし

ょうかね??



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真田丸、リプレイを見ているようですね!!

2016-09-12 | 歴史

徳川の主力部隊による第二次上田合戦

総大将は徳川の世継ぎ秀忠ですが、上田攻めは秀忠の意思

ではなくあくまでも家康の命令です

上方での東西決戦が家康の想像していたより早くなりそう

なので秀忠軍に上田城攻め中止の伝令を発しますが、おり

からの長雨で利根川が氾濫、伝令も足止めされます

23日は遅れた筈。

すんなり伝令が届いていれば徳川軍の犠牲者も殆ど出なかっ

たでしょうね

それにしても、徳川精鋭部隊をもってしてでも昌幸に敵わな

かったのはどうしてなのでしょうか??

昌幸ほどの武将が同じ戦法を使う筈が無いと思ったのでしょ

うか??

敵を挑発し上田城へ引き寄せ鉄砲攻撃、逃げるところを伏兵

による側面攻撃、総崩れとなった徳川軍ですが、長雨で増水

した神川を渡れず撤退不能

昌幸はまたしても神川上流の堰き止め、時機を見て堰を切っ

たため神川は溢れ敵の応援部隊も為す術なし

まるで第一次上田城攻めのリプレイを見ているようです。

智将・真田昌幸の面目躍如といったところですね

 

犬伏の別れから三日後に開かれた小山評定。

上杉討伐軍に従軍していた豊臣の主力部隊がこぞって家康

に同調

徳川軍ではなく東軍として主力部隊を形成。

関ケ原の戦いは、見方を変えれば豊臣軍内の権力闘争とも

いえますね

豊臣軍の内部崩壊をまんまと家康に利用され、気が付けば

家康による天下統一の手助けをする事になっていたのです

秀頼誕生で身内を殺し、意味のない唐入りが発端で内部に

亀裂が走り、自らが亡くなった後に対立が頂点に達し内部

崩壊へと向かいます

そう考えれば秀頼誕生が豊臣家滅亡の引き金を引いた事に

なるのかも知れません

 

秀吉の急速な老いが判断力を低下させ老いた権力者だけが

残ったのですから豊臣政権滅亡は仕方のないところです

 

予告では…

再来週あたりに小野のお通が登場しそうですね

信幸と深く関わりあいのあった小野のお通

真田丸ではスルーされるのかと思っていましたが、満を持し

ての登場

実在したのは間違いないのですが、とにかく謎の多い女性で

そのお通の墓が真田の菩提寺・広徳寺にあるのです

この事から信幸の側室だった可能性があるとも言われている

のです。

信幸の次男・信政の側室・図子はお通の長女だとか

詩歌や書画、琴などにも秀でた才能を発揮、美貌も兼ね備え

た才媛だったお通、全く非の打ちどころのない人物ですね。

信幸が心を奪われたとしても不思議有りません

信長・秀吉・家康をはじめとする武将達とも繋がりを持ち、

皇族や公家や寺社との交流も…

謎に包まれたお通ですが、出生には諸説あり定かではありま

せん

家康の側近・天界もそうですが、お通の前半生も謎に包まれ

ています。

仲介者・交渉人としてはその方が都合が良いのかも知れませ

ん。

個人的にはどういう形で登場するのか今から楽しみです。

因みに、吉川英治の「宮本武蔵」に登場する武蔵の妻・お通

は小野お通がモデルだとか?

本当なのでしようかね??






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真田丸、三人に迷いは無かったのです!!

2016-09-05 | 歴史

今週は感動的な場面として言い伝えられている「犬伏の別れ」

でしたね

親子三人で議論を重ね、真田家が生き残る道を模索した結果、

東西に分かれたかの様に言われていますが果たして…

昌幸は石田三成の妻と縁続き、信繁は大谷吉継の娘婿、信幸

は家康の重臣・本田忠勝の娘婿と至極自然な形で東西に分か

れたのです。

三人におそらく迷いは無かったでしょうね


それにしても、ドラマでの演技には泣かされました

「豊臣と徳川に分かれても真田は一つ。」と言い切る信幸に

対し「良い策じゃ。」と頷く昌幸。

涙が止まらない信繁の肩にそっと手を添える信幸

真田家の嫡子としての振る舞いを感じます。

 

いよいよ天下分け目の関ケ原ですが、大谷吉継は何故?西軍

についたのでしょうか??

三成との友情から西軍に味方したと言われていますが、それ

だけでしょうか??

負けると分かっている戦いに吉継ほどの武将が挑むとは思わ

れません。

吉継には勝利する自信があった筈です。

東軍の主力は豊臣子飼の大名達です。 

秀頼がいる限り長期戦に持ち込めば勝つ可能性がかなり高か

ったと個人的には思っています。

吉継にとって誤算だったのは関ケ原の戦いが半日で終わった

事です

戦いが終わるまで少なくても半年から数年は掛かると考えて

いた筈

運が無かったと言えばそれまでですが、東軍に比べあまりに

も万全な布陣を敷いたのも仇になったのかも知れません

今、総攻撃すれば勝てると三成は思ったのではないのでしょ

うか??

長期戦に持ち込めなかったのが悔やまれます

 

敗戦が濃厚になると西軍の武将達はこぞって逃走を始めますが、

吉継だけは違いました

関ケ原の戦いで自刃して果てたのは大谷吉継ただ一人、その潔

さは信繁にも通じるものがありますね。

後に吉継と激戦した藤堂高虎が吉継の墓を建てています

敵の有力武将の墓を建てるとなると徳川から睨まれる事になる

かも知れません

そのリスクを負ってでも墓を建てた高虎の心の中には吉継に対

しての尊敬の念があったのでしょうか??

高虎の心を駆り立てたものは何だったのでしょうか??

家康も高虎を罰する事も無く不問にふしています

敵将からも尊敬の念を持たれていた吉継。

あまりにも潔い生き様ですね





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