戦国の世では領土を守り抜くことさえ至難の業、しかも信濃の小豪族
に過ぎなかった真田家を大名にまで押し上げた昌幸の才覚は並外れた
ものがあったのでしょうね
昌幸がもし?大軍を動かせたならどのような戦をしたのでしょうか?
興味が尽きません
関ケ原のおり、黒田如水はあっという間に九州を占領して行きますが、
昌幸も如水と同じように甲斐に攻め込んでいたかも知れません
尊敬してやまない武田信玄の旧領を回復していた可能性すらあるのです
西軍に味方した時、三成から上田・小県・沼田は勿論、旧武田領も勝手
次第のお墨付きを貰っています
長期戦になれば上杉は勿論、伊達・佐竹・最上など元々徳川に心から臣
従していない大名と連携し一大勢力を形成、徳川と対抗出来たかも知れ
ません
昌幸にとっては返す返すも半日で関ケ原の戦いが終わった事が悔やまれ
ます
天地人と言いますが、昌幸にはどうやら天の時が無かった様です
やはり、全てが揃わなければ天下に名乗りを挙げるのは難しいのでしょ
うね。
九度山には家臣16名が同行したと言われていますが、普通の生活が出来
れば、和歌山藩から50石の扶持、信之からの仕送りもありさほど困らな
かった筈なのです
しかし長年しみついた大名生活を変える事など昌幸には出来なかったの
です
借金もかさみ頻繁に信之に手紙を出しています
昌幸が信之に対してお金のむしんをしたのは10年間で20回、半年に1度
は手紙を送っていた事になりますね。
そんな昌幸ですが、いずれ徳川VS徳川の戦いが起こると予言していたと
も言われています
その時、どう戦うか!!死の直前に信繁に秘策を伝授していたとも言われて
いますが、眉唾物臭い感じですね
死に臨んで昌幸からの遺言
「徳川に勝てるただ一つの道、10年掛けてわしが考えた策じゃ…」
真っ先に尾張を制し徳川が攻め来たら頃合いを見て尾張を捨て近江まで引
く……と。
一通り聞き終えた信繁。
「父上ならきっと上手く運ぶでしょうが、私には場数が足りません。」と
返答する信繁に対し「わしの策に場数など必要ない!!」と言い切る昌幸。
蟄居の後も戦の事だけを考えていたでしょうか??
戦をする為に生まれて来たといっても過言ではなさそうです
大坂の陣で信繁が大阪城に入城したと聞いた家康は、手を掛けていた戸
がガタガタと震えるほど動揺
「それは親か?子か?」と家臣に確かめたと言われています。
既に昌幸は亡くなっているのを知っていたにもかかわらず…
家康の狼狽振りが見て取れます
いかに昌幸が家康に恐れられていたかを物語る逸話ですね
個人的ですが…
第一次、二次の上田合戦を見ると昌幸と楠正成とだぶって見えます。
赤坂城や千早城に籠りゲリラ戦で敵軍を蹴散らした正成と、敵を誘
き寄せ側面やら後方からの攻撃は奇想天外
強きを挫く戦いは痛快ですね