函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

真田丸、密偵長益!!

2016-10-31 | 歴史

「勝てますか?」と茶々に問われ「私はその為に来た!!

と返す幸村

「私はどうなっても良いから秀頼を死なせないで!!」と言

う茶々ですが、モンスターペアレント状態ですね

家康攻めに大勢が決した後で軍議の決定をひっくり返した

茶々。

初めから大阪城の外で戦う気など全く無かったのです

何と愚かな決断なのでしょうか。

大阪城の主は秀頼ではなく茶々だったという事でしょうか

その茶々の周りには茶々の威を借りて指図する大蔵卿、徳

川の密偵として動いていた有楽斎などまともに戦を出来る

体制ではありません

浪人達の裏切りを心配するより近臣者の裏切りを心配した

方が良さそうです。

その近親者の筆頭と言っても良いのが茶々の叔父・織田長

(有楽斎)です。

ドラマでも惚けて掴み処のない長益ですが、実像にかなり

近い人物の様な気がします

因みに、長益の正室は信長に諫言する為自ら命を絶った平

出正秀の娘です

武将としては何の取り得も無い人物ですが、文化人、特に

茶人(有楽流の祖)としては一流のものがあります

短歌・源実朝、蹴鞠の達人・今川氏真、絵の達人・武田信

廉など平時であれば一流の芸術家として一生を終えられた

かも知れない武将も沢山います

長益もそういった人物の一人だったのでしょうね。

本能寺の変の時の長益の脱出劇には思わず吹き出してしま

います

変の折、長益は信長の嫡男・信忠と共に二条城に居たので

すが、明智軍に囲まれた信忠が自害を決意すると「自分も

一緒に自害する!!」と宣言

家臣に命じ自害の準備をさせている中、とっとと二条城を

抜け出し脱出してしまいます

何と言う男でしょうか

開いた口が塞がりません

どうやら長益は命を長らえる術には長けていた様ですね

余談ですが…

長益ですら抜け出せたのですから信忠も脱出出来た可能性

がかなり高かった筈です。

信忠は何故?信長に殉ずるより生きる道を探さなかったの

でしょうか??

信忠が生きていれば間違いなく織田政権が続いていた筈で

す。

窮地に陥った時の判断力が信忠には欠けていたのでしょう

かね




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真田丸、真田フランコ!!

2016-10-24 | 歴史

いよいよ大阪城に入った浪人達の権力闘争が始まり

ましたね

秀頼は総大将を幸村に任せたかった様ですが、中々

思うように行きません

豊臣恩顧の大名が一人でも味方に付いていれば話は

別ですが、烏合の衆を纏めるのは難しそうですね

総大将を辞退した幸村の案で十万の兵を五つに分け

各々有力武将が指揮する事に落ち着いたみたいです

「今後はこの五人衆の合議でことを進めていくこと

とする。」と決定。

五大老ならぬ五大将の誕生です

籠城戦なので兵を分けるのは案外得策なのかも知れ

ません

ところで

五人衆の中に後藤又兵衛と明石全登がいますが、両

名共黒田家の家臣から浪人しています

長政との仲違いで出奔した又兵衛と、如水の死後、

長政がキリスト教を禁止したので已むを得なく黒田

家を離れた全登

長政は両名の旧家臣が黒田家とは関わり合い無い事

を幕府に対して釈明しますが、不信感を持った家康

は長政に江戸留守居役を命じます

後藤又兵衛とは兄弟同様に育った長政ですが、二人

の間に一体何が有ったのでしょうか??

可愛さ余って憎さ百倍という事なのでしょうか??

不思議でなりません

戦国の不文律として「奉公構え」があります。

奉公構えに指定されると他家へ仕官する事が出来な

くなるのです

他家への仕官が事実上絶たれた又兵衛には豊臣の家

臣として戦う以外に選択肢はなかったのでしょうね

 

ドラマでは幸村への使者として現れた明石全登です

が、キリシタンとしても有名ですよね。

全登と幸村はかなり馬が合ったようですが、そんな

関わり合いだったのか??幸村もキリシタンだった

という説があります

真田フランコというのが洗礼名だったとか??

イエズス会の日本報告集に真田フランコという記述

があるのです

幸村の事なのか?別の真田なのか?確証はありませ

んが、信憑性は高そうです

幸村が大の仲良し明石全登の影響を受けキリシタン

に改宗したとしても不思議有りませんよね



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真田丸、挑発したのは豊臣かも??

2016-10-17 | 歴史

幸村が九度山を抜け出したという情報が広まっている中、

大阪城に入る幸村は老け顔メイクでしたね

14年もの隠遁生活ですっかり老け込み、杖を突きながら

入城する姿を見て周りはさぞかし驚いた筈です

片桐且元を追放した後、豊臣家を牛耳っていたのは大蔵

卿の息子・大野治長ですが、誰の目から見ても若輩過ぎ

ますよね

「豊臣には全軍を率いる武将がいない。血で血を洗う戦

にはなるまい!!」と言っていた信之ですが、まさか!!弟の

幸村が入城するとは思わなかったでしょうね

どうやら家康も信之と同じ思いの様です

しかし、烏合の衆を束ねるのは至難の業。

一騎当千の武将も含め10万もの兵を束ねるのは不可能です

流石の幸村でも荷が重そうですね

ところで

関ケ原の戦いが終わると家康は、西軍に味方した大名達の殆

どを取り潰し東軍の大名達に恩賞として与えます

そればかりではありません。

豊臣家の直轄地も秀頼からの御褒美として分け与えてしまっ

たので豊臣家としては普通の大名並みの領地しかなくなって

いたのです

秀頼様からの御礼と称し気前よく分け与えたのですから豊臣

家としてはたまったものではありませんよね

しかし、領地が減ったとはいえ財力では徳川と比べても見劣

ってはいません

当時の日本の首都・大坂には商人は勿論ですが、浪人達も溢

れていた筈。

財力にものを言わせ軍事力を増強するには格好の状態だった

訳です。

 

冬の陣の発端は有名な方広寺鐘銘事件ですが、家康が難癖を

つけ豊臣を挑発したと言われていますが、本当なのでしょう

か??

清韓が書いた文章の中に(国家安康)家康と(君臣豊楽)豊臣の

字が有るのは事実ですし、後に清韓が「祝意を込めて家康

の名を入れた!!」とも言っています

問題なのは豊臣は姓で家康は名前だという事です。

建前上豊臣家の家臣とはいえ現実的な天下人は家康だと誰も

が思っていた筈

これはかなりの非礼にあたります

しかも家康の名前だけがという文字で分断されているので

すから、確信犯だと言われても仕方ありません

見方を変えれば徳川が挑発したのではなく豊臣が挑発したと

見る事も出来るのです。

清韓一人の考えなのか?豊臣家の誰かの指図なのかは分かり

ませんが…

単に徳川に一泡ふかせてやろうと思った事が大きくなっただ

けなのかも知れませんが、策士策に溺れた感じもします

何れにしても、この事を逆手に取られ滅亡に向かったのです

から、豊臣家からすれば清韓の書いた書は悔やんでも悔やみ

きれません

ペンの恐ろしさはこの時代にもあったという事でしょうかね??




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真田丸、且元の裏切り??

2016-10-11 | 歴史

秀頼の使者として訪れた明石全登

にべもなく大阪城入りを断る信繁に「会わせたい人

がいると…」

まさかここで片桐且元が登場するとはビックリ

追放された経緯を話始める且元ですが、戦いを避け

る為に徳川から出された三箇条(秀頼の国替え、茶々

の人質、豊臣家の参勤)が且元の作り話だったとは

その言い訳が「悔しくて嘘をついた!!」とは二度ビ

ックリ

大坂の陣は且元が原因だったのですね

いくら何でもとは思いますが、三谷脚本なので…


実は、家康の意図は違うところにあったのです

形上は豊臣家の筆頭大老・家康が豊臣家へ遣わした

且元を秀頼が勝手に追放した事になるのです

家康は大阪城を攻める大義名分が欲しかったのでし

ょうが、いくら何でも無理がありますよね。

秀頼・茶々は勿論、且元を含めた豊臣の家臣達が、

すべからく家康の罠に掛かった事になります

あからさまに無理難題を押し付けても徳川に反発す

る大名はもはやいなくなっていたのです

 

いよいよ幸村を名乗る事になった信繁ですが、まさ

!!籤で決めたとは思いませんでした

幸村の名は江戸時代に入ってから講談などで語られ

ていた様ですが、現代では幸村と言う名前の方がし

っくりしますね

真田家の諱・幸と、信繁が持っていたとされる妖刀

正村の村から幸村の名を付けたとも言われています

が、こじ付けの域を出ません

何れにしても信繁の生前には幸村を名乗っていなか

った事だけは間違いなさそうです

ところで 

裏切者のレッテルを貼られている片桐且元

優柔不断な性格を家康に利用され豊臣家滅亡の道筋を

作ったかのように言われていますが、果たして本当な

のでしょうか??

検地奉行や普請奉行、唐入りに際しての食料・武器弾

薬の調達などなど…

官僚としてはかなり資質が高かったのは間違いなさそ

うです

関ケ原の戦いでは西軍に味方した且元ですが、裏では

嫡男を家康に人質として差し出しています。

三成が勝手に起こした戦に秀頼は関係無いと言いたか

ったのでしょうか

この事からして且元が戦いを望んでいなかったと思わ

れるのです。

東軍の勝利が決まるとすぐ家康に会い戦勝報告を述べ、

家康の護衛までしています

一連の行動は自分の保身の為ではなく、単に豊臣家存

続を考えての行動だと僕は思っています。

且元の考えの根底には、どういう形であれ豊臣家を残

したいという思いが強かったのではないのでしょうか

何が何でも秀頼を中心とした豊臣政権を維持したい三

成とは相容れません

同床異夢状態の三成と且元、豊臣の家臣としては同じ

ですが、着地点が全く違うのです

三成に且元の様な柔軟性が少しでもあれば豊臣家滅亡

は避けられたのかも知れません。

もし、西軍が勝ったとしても三成と且元はいずれぶつ

かる運命にあったでしょうね

 

且元が大阪城を退去したのは方広寺事件の調停が不調

に終わった責めを受けたからだけなのでしょうか??

家康から出された三条件は全く呑めない条件ではあり

ません。

木村重成をはじめとする大阪城内の強硬派による且元

暗殺未遂事件が起こったというのが直接の原因だった

様です

大阪城を退去するしか道が残されていなかった且元で

すが、この事を家康に利用されるとは

少し可哀想な気もしますね




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真田丸、即答したでしょうね!!

2016-10-03 | 歴史

サナール紐→真田紐、サナールと真田を掛けただけだったとは

全く知りませんでしたが、本当なのでしょうかね??

信繁が真田紐を考案して全国に売り出したという話は後世の作

り話だという説もあるくらいに確かな話ではなさそうです

何れにしても九度山での生活はかなり困窮していたみたいです

 

家康の側近・本多正信を通じ再三恩赦を働きかけていた昌幸親子

でしたが、昌幸に恨みを抱く秀忠が二代将軍に就任した時点でほ

ぼ絶望的

昌幸が亡くなると九度山についてきた家臣達も故郷・上田に帰り

始め数名しか残らなかったとも言われています

信繁は昌幸没後、出家して好白と名乗っていた様ですが、世に出

る望みも絶たれたせいか歯も抜けすっかり老け込んでいったとか

ドラマやゲームなのどの信繁のイメージとは似ても似つかなかっ

たみたいですね。

酒に溺れ自堕落な生活を送っていた信繁の許に突然秀頼から

の出仕の願いが届いたのですから信繁が断る理由は全くありませ

ドラマでは秀頼の使者として現れたのが明石全登ですが、大野治

長だったという説もあります

個人的には明石でも大野でもなかったとは思っていますが…

支度金として金200枚・銀30貫目、入城の暁には5000名の将とし

て遇し勝利した後は50万石の大名とする事を確約したと言われて

います

武士としての信繁の心に灯が着かない訳がありません

おそらく信繁は即答した筈

条件にも惹かれたでしょうが、「もう一度戦が出来る!!」、武士と

して生きられる事を噛みしめていたでしょうね

ここで問題になるのが脱出方法です。

信繁一人ならともかく、家族や家臣も一緒となるとかなり難しそう

です

浅野家から監視役を命じられていた村人を酔わせて脱出したとか?

脱出を知った浅野家に領民が信繁をかばって三日も前から不在だと

嘘の証言をしたとか?

元々親豊臣だった浅野家自ら監視を緩めたとか?

諸説ありますが、家族と家臣を含めるとかなりの数になるので村人

の協力が無ければ不可能だったのだけは間違いなさそうです。


いよいよ大阪城に入る信繁ですが、実は、大坂の陣以前の素行は殆

ど分かっていません

歴史に登場するのは大坂の陣からだといってもよいのかも知れませ

んね

裏を返せば、今までのドラマでの信繁はフィクションなのです

最期のほんの一瞬輝いた信繁の人生ですが、歴史に名を遺すほどの

戦いがいよいよ始まります。

次週からが『大河ドラマ真田丸』の本編だと思っている僕なのです



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栃の木伝説!!

2016-10-01 | Weblog

ようやく見つけた一冊

坪谷京子著・ほっかいどう むかしあったとさ 

欲しかった理由は、126ページ

僕のルーツ、栃の木山(白木神社)の連理木に纏わる伝説の由来が

載っているからなのです

和人・幸助とアイヌの娘・チヤサニの悲恋物語

何となくは聞いてはいたのですが、詳しく知りたかったので

資料になる書物を探していたのですが、ネットで遂にゲッツ

どうやらこの本の内容は、僕の御祖父さんから伝聞を元に書

かれている様です

幸助とチヤサニが亡くなってから800年の時を経て

2本の栃木から伸びた枝がしっかりと結びついてし

まったのです。

2本の木が1本になった瞬間ですね

栃木山・白木神社は縁結びの神として「恋の栃の木さ

」と呼ばれるようになったとか

因みに、白木神社と命名したのは、北海道開拓使長官

黒田清隆が栃の木神社を通った時に付けたと言われています










 

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