函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

どうする家康、つまらぬ国!!

2023-12-18 | 歴史

どうする家康、遂に最終回ですね

最終回の主役は家康ではなく茶々だった気もします 

「茶々は、ようやりました」との言葉を残し壮絶な

最後を迎えます

色んな茶々を見てきましたが、北川景子演じる茶々

には美しさだけではなく、凛とした佇まい、強い意

志や人に対する愛情や憧れなど、今までに感じた事

のない茶々を見させて貰った気がしています

「日ノ本か、つまらぬ国になるであろう」「おのれ

の夢と野心のためになりふりかまわず力のみを信じ

て戦い抜く、かつてこの国の荒れ野を駆け巡った者

たちは、もう現れまい」

茶々の言うつまらぬ国とは、家康の目指した太平の

世の中の事なのでしょうか? 

乱世の亡霊とは茶々の事だったのかも知れませんね

「正々堂々と戦うこともせず万事長きものに巻かれ、

人目ばかりを気にし、陰でのみ嫉み、あざける」

「やさしくて、卑屈な、かよわき者の国に」と茶々

が吐き捨てた最後の言葉ですが、現代社会そのもの

を暗示した意味深な一言です 

今回のドラマは…今まで見慣れて来た家康像や茶々

像は勿論ですが、織田信長や足利義昭などの人物像

を壊した新しさも感じました 

人間の良し悪しは勿論ですが、善悪だけでも語り切

れない人間の奥深さみたいものを感じた僕なのです

 

ところで…  

夏の陣では、大和郡山への国替えか、大阪城内の浪

人衆を放逐するか、これが家康の最後通知の条件で

した 

大野治長からの使者が、国替えに対してご容赦をと

返答したとか? 

現状維持では交渉にはなりませんよね

 

豊臣による堀の埋め立ても中々進まないので、本多

正信を中心として徳川方による埋め立てが始まりま

す。 

それに対して豊臣方は、徳川が埋めた堀を掘り返し

たと言われています

時間稼ぎをして家康の寿命が尽きるのを待つ作戦な

のでしょうか? 

大阪城内では…元々主戦派だった大野治長が、徳川

との講和に動き出します 

この戦いに勝算無しと踏んだのでしょうね

そんな治長ですが、過激派の浪人達に暗殺されそう

になったと言われていますね

何が何でも戦をしたい浪人達をもはや抑えるのは難

しい状態になっていた様です

講和ともなれば、おそらく浪人達の暴発が起こって

いたでしょうね

西南の役でもそうでしたが、あの西郷隆盛でさえ浪

人達を抑える事が出来なかったのです

ましてや、若い秀頼や淀殿、大野治長では無理だっ

たのでしょうね

覚醒した感のある秀頼でしたが、浪人達を従え、戦

うしか選択肢が無かったとも言えます 

個人的には、秀頼と隆盛がシンクロして見えてきま

す。 

何れにしても、長い戦乱の世を終わらせたのは家康

だけではなく、秀頼の決断無くして成せなかったの

かも知れませんね。

そういう意味では、秀頼も乱世の亡霊の一人だと言

えなくもなさそうです

 

 

 

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どうする家康、南無阿弥家康!!

2023-12-11 | 歴史

戦の度に死んでいった兵達の為なのか?南無阿弥陀仏

と念仏を写経していた家康ですが、自分の寿命が尽き

るのを悟った様に南無阿弥家康と書いていましたね

この戦が長い乱世の最後の戦いだと確信していたので

しようか? 

気弱で優柔不断でも人殺しを平気でおこなえるように

なる魔界の世界、それも乱世なのでしょうかね? 

大阪の陣を最後の戦にするとの強い意志が南無阿弥家

康の念仏に感じてしまいます 

「乱世を生きるは、我らの代で十分。子どもらにそれ

を受け継がせてはなりませぬ。私とあなたですべてを

終わらせましょう」。「私の命はもう尽きます。乱世

の生き残りを根こそぎ引き連れて滅ぶ覚悟にございま

す」との家康からの手紙で家康の思いを理解したかに

見えた淀殿ですが、淀殿自ら戦を中止にするとは言え

ませんでしたね 

決断を息子・秀頼に委ねますが、「余は戦場でこの命

を燃やし尽くしたい。皆の者、天下人は断じて家康で

はなく、この秀頼であることこそが、世のため、この

国の行く末のためである」と家臣達に語ります 

「徳川を倒し共に乱世の夢をみようぞ」と打倒徳川を

宣言しますが、乱世の夢とは一体何なのでしょうか? 

乱世を終わらせると言う使命感が全く感じられません 

純粋培養で育った秀頼の限界を感じてしまいます。 

この宣言に幼さを感じてしまうのは僕だけでしょうかね? 

ところで 

豊臣家の家老とも言われている片桐且元手ですが… 

豊臣と徳川の対立を避けるべく奔走した人物ですが、豊

臣家の財政・外交を取り仕切る存在でもあった様です 

且元には徳川家と決定的に対立すれば豊臣家は滅亡する

との関心が有ったのでしょうね 

且元以外に政治能力のあった家臣は一人もいなかったと

言うのが豊臣家の実情ですが、その且元を廃除しようと

画策していたのが信長の弟・織織田有楽と大野治長です 

豊臣家では且元と織田有楽・大野治長 との間での権力闘

争で且元暗殺未遂まで起きています 

織田有楽と大野治長に政治能力が有れば別ですが、権力欲

だけではどうしようもありません

豊臣家が滅亡に向かったのは且元追放で決定的です

且元は秀頼と淀殿が亡くなった20日後に亡くなったと言わ

れています 

且元は淀殿の父・浅井長政に仕えていましたので、淀殿に

対する忠誠心はかなりのものが有ったと思われます

豊臣家中で一番の忠臣といって良いのかも知れません

そんな且元ですから、おそらく、豊臣の滅亡を見届ける様

にひっそり亡くなったのでしょうね

 

 

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どうする家康、僧侶達の嫉妬??

2023-12-04 | 歴史

最近の説では、開戦前から和議を模索していた

とも言われています

しかし、多数の浪人達を抱えた時点で闘いは避

けられません

殆どの浪人達にとって豊臣家より御家の再興が

第一の目的。 

和議では再興が叶いません

そう考えると戦いを回避するのは難しそうです

豊臣軍は幾つかの砦を作っていましたが、木津

川口の戦いなどでは豊臣軍は全敗 

籠城戦を選択した時点で兵糧の確保は必須でし

たが、補給路も断たれ、豊臣恩顧の大名達から

の援軍も期待できない状態では戦いを続ける事

が出来ません 

福島正則や黒田長政は江戸留守居を命じられて

いるので万事休す

局地戦では真田信繁等が善戦していますが、大

局には影響なさそうですよね。 

無謀な戦だったと言わざるを得ません

 

「この戦は、徳川が汚名を着る戦となる。信長

や秀吉と同じ地獄を背負い、あの世へ逝く。そ

れが最後の役目じゃ」と決意を伝える家康 

秀忠に対し「人殺しの術など、覚えんでよい」

とは、幼かった自分自身にも言い聞かせている

様に聞こえたのは僕だけでしょうか? ?

本当は家康も秀忠の様に行きたかったのかも知

れませんね 

家康は、戦なき世を成すのを秀忠に託し、自ら

汚れ役を買って出るつもりのようです

戦嫌いの家康の最後の戦が始まろうとしていま

 

  

大阪の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件。 

家康が言い掛かりをつけ豊臣を挑発したと言わ

れていましたが… 

勿論、そう言った側面もあったと思いますが、

鐘銘の文言を考案したのは豊臣に縁の深い清韓

と言う僧侶ですね 

清韓が後に捕らえられているところをみると、

故意に徳川を挑発しいたのではないかと疑って

しまいます

だとすれば、豊臣家の誰かの依頼があったのか?

清韓自身が豊臣家に対して忖度しただけなのか? 

事実は闇の中ですが… 

国家安康、君臣豊楽、鐘に刻まれていた文言で

す。 

家康の名前を切り離し、豊臣の繁栄のみを祈っ

ていると読まれてもおかしくありません 

この言い掛かりともとれる事件に暗躍したとさ

れるのが、黒衣の宰相の異名を持つ金地院崇伝。

崇伝は京都五山の一つ南禅寺の僧侶でもありま

因みに、清韓は東福寺や南禅寺にもいた京都五

山の高僧の一人です 

清韓は名声の高い高僧だったので、徳川が清韓

を罰すれば京都五山の僧達の反発が必至と思わ

れましたが… 

しかし、全く批判が出ません

何故か? 

どうやら崇伝が五山の僧達に根回しをした節が

あるのです 

清韓に嫉妬している僧達の心理を見抜き、清韓

を悪者に仕立て、家康指示へと導いたのです 

家康の参謀として仕えた崇伝の面目躍如といっ

たところでしょうか 

凡人の僕から見ると、偉い僧侶でも嫉妬するも

のなのか?と思っててしまいます。 

修業を積んだ僧達でさえ嫉妬するのです。 

人間の煩悩とは、どうやら位や立場に関係ない

見たいです

 

 

 

 

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どうする家康、巨漢だった秀頼??

2023-11-27 | 歴史

自身の生き様に葛藤を覚える家康

そこに登場したのが、旧主・今川氏真でしたね 

「見違えるほど成長した。立派になった」と家

康を称える氏真ですが、「平気で人を殺せるよ

うになっただけじゃ」と暗い表情の家康 

いつになく弱気な家康に対し、「家康よ、弟よ、

弱音を吐きたいときはこの兄が引き受ける。そ

のために来た。おぬしに助けられた命もあるこ

とを忘れるな。本当のおぬしに戻れる日もきっ

とくる」と慰める氏真の前で涙を流す家康でし

たね

実像の家康は違っていたと思いますが、ドラマ

の中での悩み苦しむ姿こそ(どうする家康)で脚

本家が描きたかった事だった気がしています

これから大阪の陣が勃発しますが、家康は豊臣

の滅亡を望んでいなかったと個人的には思って

います。 

一大名として生きる道を閉ざしたのは豊臣の方

なのでは… 

大阪城には莫大な金と多数の浪人達が溢れてい

ました 

浪人達にとって御家再興を果たすには戦しかな

かったのです

軍資金と兵力が整えば戦しかありません 

そう言う意味では、大阪の陣が勃発したのにも

必然性があったと言えます。 

多数の浪人達を召し抱えたとは言え、纏めるの

は至難の業 

軍として動かすには司令塔が必要です 

個人的には、真田昌幸が生きていれば少しは違

っていたかも?と思っています。 

昌幸に全権を委任すれば、まさか?が起こった

のかも知れません 

歴史にIFは無いと言いますが、イマジネーショ

ンを働かせるのも歴史の面白さだと思っている

僕なのですが… 

 ところで…

ドラマでは、スリムで高身長の秀頼として描か

れていましたが…

諸説ありますが、実際の秀頼は、身長197cm、

体重161㎏、現代の力士と比べてもかなり大き

い体形だった見たいです 

だとすれば、140cmそこそこしかなかった秀吉

の子供だとはとても思われませんよね 

尤も、母親の淀殿も168と当時としてはかなり

の長身ですし、淀殿の父・浅井長政も180cmと

かなりの高身長 

秀頼が大きかったのは、浅井家の血を濃く受け

た隔世遺伝だったのかも知れません 

巨漢だった秀頼に面白いエピソードが残ってい

ます 

関ケ原の戦いの折、秀頼本人は戦場に赴くつも

りでしたが、あまりに巨漢だったため馬に乗る

事が出来ず、止むを得ず出馬を諦めたと言うの

です 

嘘の様な話ですね

生涯殆ど大阪城で過ごした秀頼なので、あり得

ない話と否定も出来ません???

皆さんは信じられますか? 

 

 

 

 

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どうする家康、軍事指揮権をもった家康!!

2023-11-20 | 歴史

今週の主役は山田裕貴 演じる本多忠勝ですね 

生涯かすり傷一つも負わなかったと言われている

忠勝が、槍で指を切ってしまいます 

忠勝自身が老いを感じた瞬間でしたね

「老いには抗えん。無念だが、我らはここまでの

ようじゃ。役目は終えたのだ」と言う康政を、

「わしは認めん!!殿を守って死ぬのがわしの夢じ

ゃ、老いなど認めん。」と意気込みを語る忠勝で

すが、どうやら引き際が近ずいている見たいです 

晩年の忠勝は、目を患っていたと言われています

が、殆ど見えていない山田裕貴の演ずる忠勝の演

技にも引き込まれるものがありました 

流石、役者ですね 

 

関ケ原の戦いも呆気なく終わってしまいましたが、

家康に内応していた小早川秀秋が、大垣城主・伊

藤盛正を松尾山から退かせ、松尾山を占拠してし

ったのが戦いの始まりだったのかも知れません。

最近の説では、秀秋は開戦と同時に大谷吉継隊へ

攻撃したと言われています

開戦前日に毛利輝元は本領安堵を条件に家康の調

略を受け入れたらしいのです 

この事は毛利秀元や安国寺恵瓊には知らせていな

かったと言われていますが、時間的に無理だった

のか?? それとも意図的だったのか?

何れにしても、決戦の前日に西軍の総大将が家康

と和議を結んでいたのですから勝てる筈がありま

せん

関ケ原の戦いは開戦前に決着していたと言っても

良いのかも知れませんね

 

遂に家康は征夷大将軍になります

征夷大将軍に就任するという事は、武家に対する

軍事指揮権を持つと言う事になります 

征夷大将軍になる事により、いまだに秀頼の臣下

となっている大名達を自分の指揮下に置く事が出

来るのです 

しかし、征夷大将軍になっても家康による天下平

定が為された訳ではありません

秀頼を中心とした豊臣政権が存在し、家康による

軍事指揮権に大名達が従っているという少しやや

こしい構図です 

家康のほうが秀頼より位階と宮職は上ですが、嫡

男・秀忠よりは秀頼のほうが上でした

この状態は、将軍職が秀忠に譲られたのちも続き

ます。 

徳川としては、この状態を打破したかったのかも

知れませんね 

その事が大阪の陣の一因であった事は間違いなさ

そうです 

 

 

 

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どうする家康、決戦関が原!!

2023-11-13 | 歴史

天下分け目の関ケ原

VPで撮影された映像も迫力がありましたね

戦いは井伊直政が口火を切ったと言われていますが… 

いつも先陣を切る本多忠勝は家康本陣の前に布陣し

ています

福島・黒田・藤堂などの豊臣恩顧の武将の後ろです。 

万が一、それらの武将が裏切った場合の備えといっ

たところでしょうか? 

ちょっとしたきっかけで裏切らないともいえません

ものね

 

捕らえられた三成と勝者となった家康の対面のシー

ンが、意味深でしたね 

「この悲惨な戦を引き起こしたのは、私であり、あ

なただ。」「戦乱を求むる者に戦なき世など成せぬ。

まやかしの夢を語るな!」 と言い放つ三成ですが、

戦なき世を実現できるのであれば、豊臣でも徳川で

もどちらでも良い筈 

家康が語った「それでも、わしはやらねばならぬ」

の言葉に、天から与えられた使命感を感じるのは僕

だけでしょうか? 

戦なき世を成す為には悲惨な戦いをするしかないと

いう矛盾を説明する言葉は見つかりません

ところで… 

近年、玉城の存在が明らかになってきましたね 

三成が手を加えたと言われていますが、関ケ原を見

下せるかなり巨大な城だった様です 

そんな巨大な城に誰が入るのか? 

輝元と秀頼しかいませんよね 

関ケ原の開戦がもう少し長引けば、輝元と秀頼が玉

城に入城していた筈です 

そうなれば、徳川本体の秀忠軍のいない東軍は壊滅

していたかも知れません 

南宮山に布陣した毛利軍も、当主・輝元が戦いに加

わったとなれば西軍として行動するしかありません。 

豊臣恩顧の武将達も流石に秀頼には弓を向けられま

せんよね

おそらく家康は長期戦になれば負けると自覚してい

た筈です

輝元と秀頼が出て来る前に勝敗を決しなければ負け

る事を… 

現有勢力で勝利するには短期決戦しか可能性が無か

った訳です 

 

南宮山に布陣した毛利軍・一万六千、率いていたの

は輝元の養子・秀元です

長宗我部盛親や長束正家も居りましたが、何故か?

吉川広家が動こうとしません 

広家が動かなければ毛利軍も山を降れないのです 

戦いの最中、南宮山に布陣した軍は動くに動けない

状態が続き、お互い疑心暗鬼状態

結局、烏合の衆と化したのです

広家は毛利が西軍として戦うのには初めから反対だ

った見たいですね 

輝元に西軍に味方しないよう説得しようと試みます

が、時すでに遅く、輝元はさっさと大阪城へ入城し

てしまいます 

広家には東軍が勝利するという確証が有ったのかも

知れません。 

小早川の裏切りと広家の決断が関ケ原の戦いの勝敗

を決したと言っても過言ではありませんね 

戦いは当初は互角だったと言われていますので、も

し?南宮山の三万の軍が山を駆け降りたならば、勝

敗は逆転していた可能性が大きそうです。 

毛利軍の参戦が確認されれば小早川隊も呼応して東

軍に襲い掛かった筈… 

小早川軍は最初から東軍に寝返るつもりだったと言

われていますが、笹尾山から戦況を見て西軍有利と

もなれば躊躇なく西軍として戦っていたのは間違い

ありません 

東軍を率いていたのが大身の家康、対して西軍を率

いていたのが小身の三成です。 

自軍を意のままに操る能力は家康の方がはるかに上

です。 

もし?家康に対抗出来るとすれば前田利家しかいま

せん。 

その利家が亡くなった事が関ケ原の戦いの全ての様

な気がしている僕なのです

 

戦国も末期ともなれば、成熟した世の中に近ずいて

来ていたのでは… 

その中にあって関ケ原の戦いは、家康・三成のどち

らが覇権を握るかの戦いだったと言っても過言では

ありません。 

豊臣家中心の政権か、徳川家中心の政権かの選択の

戦いです 

何れにしても、話し合いで成し遂げられる現在とは

大きな開きがありますよね

 

 

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どうする家康、幸せそうな最期でしたね!!

2023-11-06 | 歴史

「徳川一の忠臣、この鳥居元忠が、お守りいたしまする。」 

その言葉通り伏見城を13日間も守り抜いた鳥居元忠 

壮絶な最期でしたね 

西軍四万を相手に僅か千八百の兵力で13日間も伏見に釘付

けにしたのは流石です 

上田城に秀忠軍を釘付けにした真田昌幸にも匹敵する働き

ですね 

元忠は、家康が上杉征伐を止め西国に引き返す事が出来た

最大の功労者と言っても良いのかも知れません

ドラマでは… 

信玄の家臣だった馬場信春の娘を側室として娶っています

が、馬場信春の娘かどうかは定かではない様です

武田家に縁のある女性だったのは間違いなさそうですが… 

何れにしても、家康との約束を立派に果たし、最愛の女性

と最期を迎える事が出来た元忠には、悲壮感を感じなかっ

たのは僕だけでしょうか? 

僕の目には、とても幸せそうな表情に写りましたが… 

ところで… 

おっとりとした跡取りだとばかり思っていた毛利輝元 

叔父・吉川元春や小早川隆景の陰に隠れた人物だとば

かり思っていたのですが… 

俊敏な行動力を見ると、野心家でもあり凡庸な人物と

はとても思えません

三成からの依頼とは言え、短時間で意気揚々と大阪城

へ入り豊臣秀頼を確保 

淀殿は勿論、前田玄以、長束正家、増田長盛 の三奉行

を味方にし、五大老の一人・宇喜多秀家までも引き込

みます 

勿論、三成無しでの関ケ原の戦いは有りえませんが、

三成が西軍を統率していたとも思われません 

お飾りではなく、西軍の総大将は間違いなく毛利輝元

と確信している僕なのです 

三奉行の名で「内府違いの条々」という弾劾状をまと

めたのも輝元の指図だったのではないのでしょうか? 

この書状を読むと、正義は西軍にあります。 

つまり東軍は、賊軍となってしまったのです

 

秀頼を先頭に輝元が出陣すればおそらく西軍が勝って

いたと個人的には思っています。 

秀頼出陣ともなれば、福島正則や黒田長政などの豊臣

恩顧の武将は、中立を決め込むか?戦いを避け自分の

地に引き返すしかありません

関ケ原の戦いは、輝元が思っていたよりもかなり早く

開戦したための敗戦だった様な気がしてなりません 

総勢15万~20万もの大軍の戦いが数時間で勝敗が決す

るとは殆どの武将は思っていなかった筈です 

数日ないしは数カ月掛かっても不思議ありません。 

輝元にとって、時間軸の読み違いが決定的だったのか

も知れませんね

 

 

 

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どうする家康、家康暗殺計画??

2023-10-30 | 歴史

佐和山に隠居した三成ですが、家康はこの機に乗じて

伏見城から大阪城西の丸に移っています 

ドラマでは…

上杉景勝の謀反の噂が広がると茶々が家康を焚きつけ

ていましたね 

裏では三成には軍資金を与え、上杉討伐に向かった家

康の隙を突き挙兵させ、そればかりか、家康に「三成

が怖い。」と手紙まで送るとは稀代の悪女そのもの

茶々ばかりではなく、上杉景勝も毛利輝元も家康を廃

除して実権を握ろうとしていた節もあります 

家康が単に言い掛かりをつけ上杉討伐をした訳でもな

さそうです。 

特に輝元は連絡を受けてから僅か二日で大阪に到着し

たと言われています 

やる気満々ですよね

秀吉ですら岡山から戻るのに十日も掛かっていますが、

それより遠い広島からなので驚きの速さです 

勿論、陸路と海路からの違いがあるにせよ当時として

は異常な速さです

輝元の意気込みを感じますね 

武将たるもの天下の覇権の前では皆同じなのかも知れ

ません

 ところで 

家康は伏見城で政務をとっていましたが、加藤清正を

はじめとする七将が石田三成の伏見城内の屋敷を包囲

する事件が起こります。 

仲裁に乗り出したのが家康です

正確には家康と北政所の二人です 

結果、三成は居城の沢山へ退く事になりますが、この

事件から間もなく、増田長盛からの密告で家康暗殺計

画が家康に告げられます 

首謀者は前田利長で浅野長政や大野治長、土方雄久ら

が大阪城内で家康暗殺を目論んでいると言うのです 

重陽の節句の折、秀頼に挨拶をするため大阪城へ来る

家康を亡き者にしようと言う企みです 

危惧した家康は伏見から家臣を呼び寄せ厳重な警護を

させたと言われていますが、どうも胡散臭い臭いがし

ますよね

家康陣営が態と流布した偽情報だと言われていました

が、前田利長も浅野長政もどちらかといえば家康に近

い人物です 

最近では家康陣営を不利にするため三成側が流した情

報だとも言われていますが、密告したのが増田長盛だ

とすれば有りえる話です 

そうだとすれば、五大老・五奉行制を崩したのは三成

自身とだとも言えますし、情報を流したのが三成だと

すれば策士策に溺れた 感が否めません

この暗殺計画に乗じて家康は堂々と大阪城へ居座る事

が出来たのですから…

この一件を見ても、家康と三成の器の違いを感じてし

まうのは僕だけでしょうか?

何れにせよ関ケ原の戦いへのカウントダウンが始まった

様です ね

 

 

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どうする家康、豊臣政権のナンバー2!!

2023-10-16 | 歴史

秀吉が遂に最後の時を迎えます

家康を呼び出し、「うまくやりなされや」と後を託した

秀吉ですが、天下の事よりも秀頼の生末しか頭にない様

でしたね 

稀代の英雄秀吉も老いには勝てない様です

「秀頼は、あなたの子だとお思い?」と問いかける茶々。 

てっきり、実の父親を告白するのかと勘繰りましたが、

「秀頼は私の子。天下は渡さぬ」と… 

「あとは私に任せよ、猿」と言い放つ様は、亡き母・お

市を彷彿させます

茶々の言葉を聞き何故か笑みを浮かべる秀吉ですが、も

しかして、秀頼が自分の実子だと確信しての笑みなのか

も知れません

絶命した秀吉を抱きしめ泣き声を上げる茶々ですが、

吉に対する愛情が無かった訳でもなさそうでしたね 

単に情だけなのかも知れまらせんが、心の奥底は凡人の

僕には理解し難いものがあります

ところで… 

家康は朝鮮従軍から除外されています よね。

何故なのでしょうか? 

地理的に遠い事は事実ですが、それだけが理由ではなさ

そうです 

朝鮮出兵中に東で反乱が起きないともいえません 

そこで重要なのが、関東に250万石を有し、睨みを利かせ

る事が出来る徳川です

 天下人となった秀吉ですが、政権の基盤はそれほど盤石

なものではありません。 

いくら庶民に人気があっても、それだけでは長続きしま

せん 

周りは農民出の秀吉よりはるかに出自が良い武将ばかり。 

そこで欠かせないのが、信長の同盟者だった家康の存で

 

本気で徳川を潰したければいくらでもチャンスがあった

筈です。 

それをしなかったのは、家康の武将としての存在感が豊

臣政権に必要だったとも言えます 

待遇を見ても、政権ナンバー2の秀吉の弟・秀長と同等の

処遇をしているところを見ても明らかです。 

織田政権の簒奪者とも言える秀吉にとって、徳川という

重しは政権維持に欠かせないものだったのかも知れませ

 

 

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どうする家康、秀吉の子供??

2023-10-09 | 歴史

秀吉の心に入り込んでいる茶々ですが、今度は家康

の心にも入り込もうとしていましたね

そこに登場したのが家康の側室阿茶局。 

茶々VS阿茶の戦いの始まりです 

 

唐入りを何とか止めようとする家康ですが、「図に

乗るなよ。わしは太閤じゃ。その気になれば、徳川

くらい潰せるぞ。」と逆に脅しをかけられます 

そんな秀吉に怯む事無く「かつての底しれぬ強さが

あった秀吉ならばそんなことは口にすまい。」 「目

を覚ませ、惨めぞ、猿。」と…

そんな一触即発状態で登場したのが、すっかり忘れ

去られていた足利義昭 

義昭の何とも言えないキャラクターのお陰で二人の

言い争いも中断となってしまいます 

二人の争いを知ってか知らずか、義昭の語った「て

っぺんは独りぼっちじゃ。」 「信用する者を間違え

てはならんのう。」の言葉に秀吉も我に返った様で

したね 

家康に対し、「わしを見捨てるなよ」と口にする秀

吉の言葉には裏表がなかったのではと思ってしまい

ます 

ところで… 

淀殿だけに男子が二人も誕生したのは何とも不思議

ですよね 

当時から大野治長や石田三成が父親だと言われてい

ましたが、果たして真相は??

秀吉の子供と言われているのが、長浜城時代に側室

南殿が産んだ石松丸です 

それにしても、女性好きでかなりの側室を侍らせて

いた秀吉にとってあまりにも子供の数が少な過ぎま

すね 

もしかして、石松丸も秀吉の実子でないのではと個

人的には勘繰っています 

そんな秀吉の晩年に、2人も子供を授かるなんてあ

るものなのでしょうか?

絶対は有りませんが、限りなくゼロに近いのでは… 

二人の子供の父親が秀吉でない事だけは間違いない

と思ってる僕なのですが…

 

 

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