函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

真田丸、悍ましさを感じます!!

2016-02-29 | 歴史

昌幸・信尹の策謀のお蔭で北条は信濃から撤退、上杉は越後へ引き

上げ、徳川も南下した北条のお蔭で身動きが出来なくなります。

結局信濃から有力大名達がいなくなってしまいましたね

昌幸・信尹の作戦勝ちといったところでしょうか

巧妙に仕組まれた罠の犠牲者になったのが海津城の城代・春日信達。

家の存続の為とはいえ調略の名のもとに信達を騙し討ち、裏切り者とし

て殺し上杉からは見せしめとして晒されるのですから信達が何とも哀れ

です。

昌幸の意を汲み取り真田の家名を残す為だけに働く信尹。

その冷徹さは若い信繁には理解が出来ないようでしたね

「わしのようになるな!!」と信繁を諭す信尹。

少しは人間らしい気持も残っていたようです

ドラマとしては信繁最初の調略として描かれていましたが、逆算すると

15,6歳の信繁には過酷過ぎたかも知れません

あくまでもドラマの中での話ですが…

ところで、悲劇の武将として描かれていた春日信達ですが…

信玄からラブレターを貰ったとされ男色としても寵愛された武田四天王

の一人高坂弾正雅信の息子です

雅信は川中島の戦いで有名な海津城を治めていたのですが、雅信の

跡を継いだのが信達だったようです。

そのまま武田家が続けば有力武将としての地位も安泰だった筈です。

信達は武田家滅亡の後は昌幸と同じく織田に降伏しますが、その信長

も三ヶ月後に亡くなり上杉の家臣となります

ここまでは昌幸と同じ道を歩んだ事になりますね

上杉に仕えてからも海津城に居たようですが、あくまでも城代としてです。

そこに調略の隙が生まれたのでしょうか??

信達が昌幸を通じて北条に内通したとして殺されたのは事実のようです

が、昌幸と信尹の調略で上杉を裏切ったわけではありません。

勿論、この件に信繁が関わっていた筈もありません。

北条家から海津城の城主としてお墨付きを貰ったので上杉を離反しよう

としたというのが真相では…

 

ドラマでは元同僚の息子まで罠に掛け殺してしまう昌幸ですが、真田家存

続の為とはいえ惨すぎます

冷徹、残忍、人間の悍ましさを感じます。

信達は歴史上有名な武将ではありませんが、海津城は徳川の世になって

松代城として信之が治める事になります

真田家と因縁めいた城の主として信達を描きたかったのかも知れませんが、

それにしても、今週の脚本は個人的には好きになれない僕なのです

 

 

 

 

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直ぐに飲めそうにありません!!

2016-02-26 | 頂き物

友人のM君から頂いた珍しいお酒

男山酒店の【蒼天伝】というお酒です。

男山と言っても旭川の男山酒造ではありません。

気仙沼にある男山本店で作られた大吟醸。

山田錦100%、精米歩合、何と驚きの35%という代物

限定醸造らしく殆ど出回っていないとM君は言っていました

山口の獺祭も極上の香ですが、さぞかし…

体調を整えてじっくり味わいたいと思いますが、中々直ぐに

飲めそうにない僕なのです

 

 

 

 

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真田丸、裏切り!!

2016-02-22 | 歴史

まだ天正十一年なんですね

武田が滅亡し、信長が殺され、信濃に限らず日本全土が混沌としていた

激動の一年、これほど濃密な一年は無かったかも知れません。

 

混乱に乗じて岩櫃・沼田を押さえた昌幸ですが、一益にとって岩櫃・沼田

の事なんてどうでも良かった筈です

何としてでも清州会議に間に合わせなければの一念だったのでは…。

もし?木曽義昌の邪魔がなければ清州会議に間に合っていたかも知れま

せん

真っ先に武田を裏切り織田に寝返った義昌が織田軍たる滝川一益を通さ

ないとは、全く意味が分かりません

「武田家を滅ぼした織田は親の仇」、その言い訳には全く脈絡を感じません

人質の前で「何れわしは信濃の大名となる」とのたまうくだり…

こまで来ると笑うしかありませんよね 

昌幸の上をゆく節操の無さです

 

ところで…勝頼を最初に裏切ったのは木曽義昌だと言われていますが、穴山

信君(梅雪)、小山田信茂など次々と裏切り者が増えていきます

滅亡する時はそんなものなのかも知れませんが、あまりにも多過ぎる気がして

なりません。

戦国時代は裏切りが日常茶飯事だとはいえ、一門衆から総スカンされていた勝

頼には何か問題があったのかも知れません。

義叔父・穴山信君もそうですが、叔父・武田信廉や従弟・武田信豊などは表だっ

て裏切ってはいませんが、長篠の戦では殆ど戦わず逃げ帰ったと言われていま

長篠の戦の後、留守居だった高坂雅信からは信豊と信君の切腹を進言されてい

るくらいですから間接的な裏切りといってもいいのかも知れません

 

信君が裏切った理由ですが…

勝頼の娘を信君の嫡男に貰い受ける約束をしていたにもかかわらず信豊の子供

に嫁がせた事が裏切りの原因だとか

勝頼は人との関わり合いに対して凡庸な一面があったのかも知れません。

勝頼は決して凡将ではなかったと思いますが、人心掌握術が…

父・信玄よりはるかに劣っていたのでしょうか

偉大な父を持った悲劇なのでしょうかね

 

 

 

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真田丸、大博打の始まり???

2016-02-15 | 歴史

真田は誰の下にも付かん!!」

「この信濃がある限り大名達と対等に渡り合える!!」

又々、昌幸の思い付き発言炸裂。

言ってる事は一見説得力がありそうですが、この先も大名達の

顔色を伺い生きていかなければなららい真田家、とても対等に

は渡りあえないのです

「どんな手を使っても真田を守り抜いて見せる」「大博打の始まり

じゃ~」、昌幸にはこの言葉の方がピッタリ

沼田・岩櫃を確保して大名達が繰り広げる覇権争いを尻目に真田

家存続だけを考え渡り歩くつもりなのでしょうね

権力者は勝ち続けなければいけませんが、家の存続が最大の目的

となれば何でも出来そうですね

ところで

滝川一益や森長可は結局領土を放棄して撤退しますが、甲斐に残っ

ていたのが川尻秀隆

この機に乗じて甲斐に侵攻したい家康は秀隆に撤退を進めます

情報も少なく動揺していた秀隆は何と!!家康の使者を殺してしまう

のです

家康に攻め滅ぼされると思ったのでしょうか?

信長親子が亡くなったとはいえ織田家は残っています。

もしかして織田家全体を敵にまわすかも知れないのですから秀隆が甲

斐にいる以上家康も迂闊には攻められません

秀隆の狼狽振りが見て取れますね

家康は一揆を起こさせ間接的に甲斐攻略に取り掛かります。

結局、秀隆は一揆の首謀者に殺されてしまいますが、一揆の陰で糸を

いていた家康に殺されたと言っても過言ではありません。

絶対君主がある日突然いなくなるというのはよほどの事、正確な情報収

集が出来ていたかが生死の分かれ目だったようです

甲斐の国主・川尻秀隆が亡くなると家康は堂々と甲斐制圧へと動き出します

甲斐でも信濃でも家康は旧武田家家臣を使い領土拡大を目論みますが、

用意周到でしたたかな家康の真骨頂ともいえます

 

昌幸も素早く動きます

沼田・岩櫃の両城を回復しますが、真田家だけでは存続が危うい状態に変わり

ありません。

昌幸は上杉→北条→徳川と同盟相手を替え何とか生き延びましたが、思わぬ

事態に…

天敵だった北条と徳川が和睦、昌幸にとって青天の霹靂だった筈です

北条・徳川が不可侵条約を結んだだけなら真田にとっても大した問題ではなか

ったのですが、甲斐・信濃は徳川、上野は北条と決定

昌幸が領有していた上野の吾妻領・沼田領を北条に返還せよと家康からの命

令が!!

 

 

真田にとっては死活問題、家康から代替え地を貰っていないと主張し昌幸はこ

れを拒否

 

しかし、家康も上杉との対決を目論んでいたため沼田領問題を黙殺していたら

しいのです

 

当然、徳川と真田の関係も険悪な状態となります

一難去って又一難、昌幸に休息は当分なさそうですね

 

 

 

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真田丸、運が無かった一益!!

2016-02-08 | Weblog

青天の霹靂、驚天動地、本能寺の変を言い表す言葉が見つかりません

たとえ情報が入ったとしても本当なのか?流言なのか?確認する術が

ないのです

確信するまでにはかなりの時間を要した筈です。

信長だけでも驚きなのに世継ぎの信忠までも亡くなるなんて!!誰が想

像したでしょうか?

下手すれば又、無政府状態となってしまいます。

歴史上、最大の事件だったと僕は思っています

 

北陸にいた柴田勝家が本能寺の変を知ったのが事件から六日後だと言わ

れています。

滝川一益が異変を察したのもおそらく同じ頃だったのでは…

光秀にすれば織田家の司令官達に情報が入るのが遅れれば遅れるほど有

利になる訳です

本能寺の変が半年遅れていたら?

もしかして滝川一益が一番早く光秀と相対していたかも知れません??

可能性という意味の話ですが…

 

上杉には断られようやく呼び出された直属の上司・滝川一益は「良い温

泉を知らないか?」と全くのノー天気状態。 

「戦の起きぬ世が近づいている」とのたまう一益。

開いた口が塞がらない昌幸、ブラックジョークを通り過ぎていますね

珍しく弱気な言葉を吐く昌幸ですが、立ち直りもさすがに早い

「誰が最後の覇者となるか見極め食らいついてやる。」と…

有力大名に囲まれ微妙なバランスの上に真田家が存続する事になります。

勿論、こんな状態が 長く続く筈がありません。

いよいよ昌幸一世一代の戦いが始まろうとしています。

 

ところで

織田の領土となっていた旧武田領。

信長が亡くなったと知るや上杉、北条、徳川による激しい争奪戦が始まります。

いわゆる天正壬午の乱です

早速、織田家を離反した北条氏直が上野に侵攻。

迎え撃った滝川一益は敗退し自分の領土である伊勢に退きます

一益が自領に帰った事で旧武田領から主がいなくなってしまいました。

一益にとってはあまりに時間が無さ過ぎましたね。

せめて、二・三年…

武田の旧領に入って三ヶ月では国衆を含めた武将達を纏める事など出来ません。

それどころか、自らの命も危ういのです

旧武田領からの撤退も仕方ない事ですね。 

お蔭で滝川一益は織田の跡目を決める清州会議にも参加出来ず織田家での地位

も失墜

最後は、居たのか居ないのか分からなくなるほどの存在に

織田家の中で出世した一益ですが、晩年が何とも

運が無かったとしか言えませんよね 

 

 

 

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真田丸、松は福の神??

2016-02-01 | 歴史

命がけの就活に出かけた昌幸と信繁

三方ヶ原の戦いでは散々に打ち負かされた家康が、ねちっこく昌幸に迫ってきます

しかし、昌幸には勝算があったようです

徳川に内通していた穴山梅雪は降伏した後処刑された小山田信茂の事もあり内心

気が気でない様子でしたね

その梅雪に対して「裏切りの格が違う」と言い放つ家康。

裏切りに格など無いと思うのですが、言われてみれば有るような??

 

結局、小県国衆のまとめ役として認められた昌幸ですが、沼田城と岩櫃城を没収さ

れてしまいます

信長との勝負に勝ったのか?負けたのか?

家を存続できただけでも満足しなければなりませんが、昌幸にとっては戦に負けたと

思っていたでしょうね

 

昌幸は当初北条家へ帰順しようと思っていたようです。

北条家との交渉役は長尾憲景でしたが、その憲景があっさりと信長に下ってしまいま

新しい窓口を見つける時間もなく二階の梯子を外された状態の昌幸には信長に下る

他に選択肢がなかったともいえます。

昌幸は信長から領土の一部を安堵され新しく関東管領に任じられた滝川一益の配下

となったのです。

何事もなければ昌幸は滝川一益の配下として一生を終えていたかも知れません。

おそらく信繁も天下に名を残す事は無かったでしょうね。

徳川は勿論、北条もこの時点では信長に臣従しています。

信玄も亡くなり、後を追うように謙信までもが亡くなってしまうのですから信長

による天下統一は目前、誰の目にもそう映っていた筈です。

まさかまさかの出来事が

天地がひっくり返るような衝撃的な事件…本能寺の変

この事件を境に真田家も滝川一益の一配下ではいられなくなります。

昌幸親子は旧領土を回復し小さいながらも戦国大名として名乗りをあげる事

になるのです

いよいよ次週からは昌幸が一番輝いていた時を見られそうです

ところで…

真田兄弟の姉・松の夫・小山田茂誠ですが、主君・小山田信茂が殺された後

北条家に従っていたようなのです

その北条家も滅びてしまい結局昌幸の家来となったとか??

最初昌幸からは蔵米(月給のようなもの?)を与えられていたようですが、後に

村松郷を領していたとも言われています?

妻の松は村松殿と言われていたようなので茂誠が村松郷を領していたのは間

違いなさそうですね。

関ヶ原の戦いで西軍についた昌幸は九度山に蟄居となりますが、茂誠はその後

信之の家臣として仕え、その子孫は代々松代藩の次席家老として続いたとか

茂誠自身も天寿を全うしています

松の夫でなければ、滅亡した小山田家に殉じていたかも知れません。

そういう意味では茂誠にとって松は福の神だったのかも知れませんね

 

 

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