函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

どうする家康、巨漢だった秀頼??

2023-11-27 | 歴史

自身の生き様に葛藤を覚える家康

そこに登場したのが、旧主・今川氏真でしたね 

「見違えるほど成長した。立派になった」と家

康を称える氏真ですが、「平気で人を殺せるよ

うになっただけじゃ」と暗い表情の家康 

いつになく弱気な家康に対し、「家康よ、弟よ、

弱音を吐きたいときはこの兄が引き受ける。そ

のために来た。おぬしに助けられた命もあるこ

とを忘れるな。本当のおぬしに戻れる日もきっ

とくる」と慰める氏真の前で涙を流す家康でし

たね

実像の家康は違っていたと思いますが、ドラマ

の中での悩み苦しむ姿こそ(どうする家康)で脚

本家が描きたかった事だった気がしています

これから大阪の陣が勃発しますが、家康は豊臣

の滅亡を望んでいなかったと個人的には思って

います。 

一大名として生きる道を閉ざしたのは豊臣の方

なのでは… 

大阪城には莫大な金と多数の浪人達が溢れてい

ました 

浪人達にとって御家再興を果たすには戦しかな

かったのです

軍資金と兵力が整えば戦しかありません 

そう言う意味では、大阪の陣が勃発したのにも

必然性があったと言えます。 

多数の浪人達を召し抱えたとは言え、纏めるの

は至難の業 

軍として動かすには司令塔が必要です 

個人的には、真田昌幸が生きていれば少しは違

っていたかも?と思っています。 

昌幸に全権を委任すれば、まさか?が起こった

のかも知れません 

歴史にIFは無いと言いますが、イマジネーショ

ンを働かせるのも歴史の面白さだと思っている

僕なのですが… 

 ところで…

ドラマでは、スリムで高身長の秀頼として描か

れていましたが…

諸説ありますが、実際の秀頼は、身長197cm、

体重161㎏、現代の力士と比べてもかなり大き

い体形だった見たいです 

だとすれば、140cmそこそこしかなかった秀吉

の子供だとはとても思われませんよね 

尤も、母親の淀殿も168と当時としてはかなり

の長身ですし、淀殿の父・浅井長政も180cmと

かなりの高身長 

秀頼が大きかったのは、浅井家の血を濃く受け

た隔世遺伝だったのかも知れません 

巨漢だった秀頼に面白いエピソードが残ってい

ます 

関ケ原の戦いの折、秀頼本人は戦場に赴くつも

りでしたが、あまりに巨漢だったため馬に乗る

事が出来ず、止むを得ず出馬を諦めたと言うの

です 

嘘の様な話ですね

生涯殆ど大阪城で過ごした秀頼なので、あり得

ない話と否定も出来ません???

皆さんは信じられますか? 

 

 

 

 

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どうする家康、軍事指揮権をもった家康!!

2023-11-20 | 歴史

今週の主役は山田裕貴 演じる本多忠勝ですね 

生涯かすり傷一つも負わなかったと言われている

忠勝が、槍で指を切ってしまいます 

忠勝自身が老いを感じた瞬間でしたね

「老いには抗えん。無念だが、我らはここまでの

ようじゃ。役目は終えたのだ」と言う康政を、

「わしは認めん!!殿を守って死ぬのがわしの夢じ

ゃ、老いなど認めん。」と意気込みを語る忠勝で

すが、どうやら引き際が近ずいている見たいです 

晩年の忠勝は、目を患っていたと言われています

が、殆ど見えていない山田裕貴の演ずる忠勝の演

技にも引き込まれるものがありました 

流石、役者ですね 

 

関ケ原の戦いも呆気なく終わってしまいましたが、

家康に内応していた小早川秀秋が、大垣城主・伊

藤盛正を松尾山から退かせ、松尾山を占拠してし

ったのが戦いの始まりだったのかも知れません。

最近の説では、秀秋は開戦と同時に大谷吉継隊へ

攻撃したと言われています

開戦前日に毛利輝元は本領安堵を条件に家康の調

略を受け入れたらしいのです 

この事は毛利秀元や安国寺恵瓊には知らせていな

かったと言われていますが、時間的に無理だった

のか?? それとも意図的だったのか?

何れにしても、決戦の前日に西軍の総大将が家康

と和議を結んでいたのですから勝てる筈がありま

せん

関ケ原の戦いは開戦前に決着していたと言っても

良いのかも知れませんね

 

遂に家康は征夷大将軍になります

征夷大将軍に就任するという事は、武家に対する

軍事指揮権を持つと言う事になります 

征夷大将軍になる事により、いまだに秀頼の臣下

となっている大名達を自分の指揮下に置く事が出

来るのです 

しかし、征夷大将軍になっても家康による天下平

定が為された訳ではありません

秀頼を中心とした豊臣政権が存在し、家康による

軍事指揮権に大名達が従っているという少しやや

こしい構図です 

家康のほうが秀頼より位階と宮職は上ですが、嫡

男・秀忠よりは秀頼のほうが上でした

この状態は、将軍職が秀忠に譲られたのちも続き

ます。 

徳川としては、この状態を打破したかったのかも

知れませんね 

その事が大阪の陣の一因であった事は間違いなさ

そうです 

 

 

 

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どうする家康、決戦関が原!!

2023-11-13 | 歴史

天下分け目の関ケ原

VPで撮影された映像も迫力がありましたね

戦いは井伊直政が口火を切ったと言われていますが… 

いつも先陣を切る本多忠勝は家康本陣の前に布陣し

ています

福島・黒田・藤堂などの豊臣恩顧の武将の後ろです。 

万が一、それらの武将が裏切った場合の備えといっ

たところでしょうか? 

ちょっとしたきっかけで裏切らないともいえません

ものね

 

捕らえられた三成と勝者となった家康の対面のシー

ンが、意味深でしたね 

「この悲惨な戦を引き起こしたのは、私であり、あ

なただ。」「戦乱を求むる者に戦なき世など成せぬ。

まやかしの夢を語るな!」 と言い放つ三成ですが、

戦なき世を実現できるのであれば、豊臣でも徳川で

もどちらでも良い筈 

家康が語った「それでも、わしはやらねばならぬ」

の言葉に、天から与えられた使命感を感じるのは僕

だけでしょうか? 

戦なき世を成す為には悲惨な戦いをするしかないと

いう矛盾を説明する言葉は見つかりません

ところで… 

近年、玉城の存在が明らかになってきましたね 

三成が手を加えたと言われていますが、関ケ原を見

下せるかなり巨大な城だった様です 

そんな巨大な城に誰が入るのか? 

輝元と秀頼しかいませんよね 

関ケ原の開戦がもう少し長引けば、輝元と秀頼が玉

城に入城していた筈です 

そうなれば、徳川本体の秀忠軍のいない東軍は壊滅

していたかも知れません 

南宮山に布陣した毛利軍も、当主・輝元が戦いに加

わったとなれば西軍として行動するしかありません。 

豊臣恩顧の武将達も流石に秀頼には弓を向けられま

せんよね

おそらく家康は長期戦になれば負けると自覚してい

た筈です

輝元と秀頼が出て来る前に勝敗を決しなければ負け

る事を… 

現有勢力で勝利するには短期決戦しか可能性が無か

った訳です 

 

南宮山に布陣した毛利軍・一万六千、率いていたの

は輝元の養子・秀元です

長宗我部盛親や長束正家も居りましたが、何故か?

吉川広家が動こうとしません 

広家が動かなければ毛利軍も山を降れないのです 

戦いの最中、南宮山に布陣した軍は動くに動けない

状態が続き、お互い疑心暗鬼状態

結局、烏合の衆と化したのです

広家は毛利が西軍として戦うのには初めから反対だ

った見たいですね 

輝元に西軍に味方しないよう説得しようと試みます

が、時すでに遅く、輝元はさっさと大阪城へ入城し

てしまいます 

広家には東軍が勝利するという確証が有ったのかも

知れません。 

小早川の裏切りと広家の決断が関ケ原の戦いの勝敗

を決したと言っても過言ではありませんね 

戦いは当初は互角だったと言われていますので、も

し?南宮山の三万の軍が山を駆け降りたならば、勝

敗は逆転していた可能性が大きそうです。 

毛利軍の参戦が確認されれば小早川隊も呼応して東

軍に襲い掛かった筈… 

小早川軍は最初から東軍に寝返るつもりだったと言

われていますが、笹尾山から戦況を見て西軍有利と

もなれば躊躇なく西軍として戦っていたのは間違い

ありません 

東軍を率いていたのが大身の家康、対して西軍を率

いていたのが小身の三成です。 

自軍を意のままに操る能力は家康の方がはるかに上

です。 

もし?家康に対抗出来るとすれば前田利家しかいま

せん。 

その利家が亡くなった事が関ケ原の戦いの全ての様

な気がしている僕なのです

 

戦国も末期ともなれば、成熟した世の中に近ずいて

来ていたのでは… 

その中にあって関ケ原の戦いは、家康・三成のどち

らが覇権を握るかの戦いだったと言っても過言では

ありません。 

豊臣家中心の政権か、徳川家中心の政権かの選択の

戦いです 

何れにしても、話し合いで成し遂げられる現在とは

大きな開きがありますよね

 

 

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どうする家康、幸せそうな最期でしたね!!

2023-11-06 | 歴史

「徳川一の忠臣、この鳥居元忠が、お守りいたしまする。」 

その言葉通り伏見城を13日間も守り抜いた鳥居元忠 

壮絶な最期でしたね 

西軍四万を相手に僅か千八百の兵力で13日間も伏見に釘付

けにしたのは流石です 

上田城に秀忠軍を釘付けにした真田昌幸にも匹敵する働き

ですね 

元忠は、家康が上杉征伐を止め西国に引き返す事が出来た

最大の功労者と言っても良いのかも知れません

ドラマでは… 

信玄の家臣だった馬場信春の娘を側室として娶っています

が、馬場信春の娘かどうかは定かではない様です

武田家に縁のある女性だったのは間違いなさそうですが… 

何れにしても、家康との約束を立派に果たし、最愛の女性

と最期を迎える事が出来た元忠には、悲壮感を感じなかっ

たのは僕だけでしょうか? 

僕の目には、とても幸せそうな表情に写りましたが… 

ところで… 

おっとりとした跡取りだとばかり思っていた毛利輝元 

叔父・吉川元春や小早川隆景の陰に隠れた人物だとば

かり思っていたのですが… 

俊敏な行動力を見ると、野心家でもあり凡庸な人物と

はとても思えません

三成からの依頼とは言え、短時間で意気揚々と大阪城

へ入り豊臣秀頼を確保 

淀殿は勿論、前田玄以、長束正家、増田長盛 の三奉行

を味方にし、五大老の一人・宇喜多秀家までも引き込

みます 

勿論、三成無しでの関ケ原の戦いは有りえませんが、

三成が西軍を統率していたとも思われません 

お飾りではなく、西軍の総大将は間違いなく毛利輝元

と確信している僕なのです 

三奉行の名で「内府違いの条々」という弾劾状をまと

めたのも輝元の指図だったのではないのでしょうか? 

この書状を読むと、正義は西軍にあります。 

つまり東軍は、賊軍となってしまったのです

 

秀頼を先頭に輝元が出陣すればおそらく西軍が勝って

いたと個人的には思っています。 

秀頼出陣ともなれば、福島正則や黒田長政などの豊臣

恩顧の武将は、中立を決め込むか?戦いを避け自分の

地に引き返すしかありません

関ケ原の戦いは、輝元が思っていたよりもかなり早く

開戦したための敗戦だった様な気がしてなりません 

総勢15万~20万もの大軍の戦いが数時間で勝敗が決す

るとは殆どの武将は思っていなかった筈です 

数日ないしは数カ月掛かっても不思議ありません。 

輝元にとって、時間軸の読み違いが決定的だったのか

も知れませんね

 

 

 

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