函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

どうする家康、信虎と同じ過ちを犯す勝頼!!

2023-05-29 | 歴史

武田信玄が亡くなり危機を脱したかに見えた家康ですが、

後を継いだ勝頼に攻め続けられていました

次々と城を落とされ以前よりも危機的な状態です

大岡弥四郎事件が起きたのもそんな状況下にあったから

でしょうね

 

嫡男・信康とも対立していた家康ですが…  

家臣団も岡崎派と浜松派とに分裂という危うい状態だっ

たようです

 

秀康の生母・お万の方は懐妊すると城外へ追放し、生ま

れた子供(秀康)を認知させなかったと言われていますし、

後の二代将軍となる秀忠の生母・お愛の方は築山殿の待

女に暗殺されたとも言われています

勿論、決定的な証拠がある訳ではありませんが、いかに

築山殿が岡崎での実力者として君臨していたかという事

でしょうね

嫡男・信康の生母として、徳川家でも絶対的な権力を手

にしていたのかも知れません

家臣達も石川数正を筆頭として反浜松の機運が高まって

いた可能性も高そうですね

小牧長久手の戦い以降に出奔した石川数正ですが、この

時の争いの根深さも感じてしまいます 

 

岡崎で町奉行を務めていた大岡弥四郎の手引きで岡崎を

制圧しようと目論んでいた武田ですが、山田八蔵の密告

により事前に発覚し事なきを得たと言われていますね

 

この企てに築山殿も加わっていたと言われていますが、

有り得る話だと個人的には思っています 

信康の妻・五徳は男子を産むことが出来なかったので、

武田家ゆかりの者を側室として迎えていたとも言われ

ていますので、全くの出鱈目とは言い切れません。 

カリスマ信玄が亡くなりましたが、武田は以前にもま

して最大の領地を有しているのです

築山殿から見れば…

飛ぶ鳥を落とす勢いの武田と誼を通じていた方が、我

が子の将来にとって最良の選択肢だと思ったとしても

不思議ありません 

この事があって勝頼は岡崎攻略を諦め長篠城攻めへと

突き進むのですが、この事件がきっかけで武田家滅亡

へのプロローグが始まるのですから、分からないもの

です

 

戦続きで疲弊していた武田軍、家臣達の不満も頂点に

達していた筈

軍資金も底を突き、上杉家の内乱では金に釣られ景勝

側に金銭で調略される始末 

形だけは大国となりましたが、内憂外患状態だった様

です 

勝頼は祖父・信虎と同じ道を進んでいる気がしてなり

ません。 

勝頼も祖父・信虎と同じく家臣に騙され自害してしま

いますが、血の成せる技か?同じ過ちを繰り返すもの

なのでしょうかね? 

 

ところで… 

いつの間にか井伊寅松が家康の家臣として登場してい

ましたね

家康は何故?寅松を家臣にしたのでしょうか? 

諸説ありますが、寅松の父・直親は元々家康から家臣

にならないかと打診されていたとか 

しかし、それを察した今川氏真が直親を駿府に呼び寄

せ騙し討ち 

呆気なく殺されてしまうのです 

思うに、この時の顛末を家康は気に掛けていたと個人

的には思っています

井伊家は幕末まで続きますが、直親の死も無駄ではな

かったとも言えますよね

 

 

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どうする家康、双子だった秀康!!

2023-05-22 | 歴史

先週は…しんがりを務めた本多忠真と、家康の甲冑を

身に着け身代わりとなった夏目広次の壮絶な討ち死に

からすると、今週のドラマは何とも拍子抜けした感じ

がしたのは僕だけでしょうか?

それはそれとして、ほっこりとしたホームドラマを見

ていると思えば少しは楽しめるのかも知れませんが…

 

お万は家康の次男・結城秀康の母ですね 

家康の正室・瀬名の奥女中として仕えていたからなの

か? 

瀬名はお万を側室として認めませんでした 

木に縛り付け折檻したとも?言われていますが、家康

がお万を庇う事は無かったとも言われています 

それどころか家康が秀康と対面したのはかなり後の事。 

不憫に思った家康の嫡男・信康の口添えでようやく対

面したとか?

嫡男の信康が亡くなった後、当然秀康が後を継ぐのか

と思われましたが、結局、結城家へ養子に出されてい

ますよね

秀吉との和睦で信康は人質扱いで秀吉の許に行かされ

ているところをみると、家康は鼻から秀康に徳川の家

督を継がせる気が無かったのでしょうね

秀康に対しては自分の子供としての愛情が微塵も感じ

られません 

そういえば家康の六男・松平忠輝に対する扱いにも秀

康と同じ様なものを感じます 

家康は、家督を継ぐ子供以外はどうでも良かったのか

も知れません。 

家康にとっては徳川家が続く事だけが全てなのでしょ

うね? 

ところで… 

秀康には兄弟がいました 

秀康は双子だったのです

当時、双子は犬畜生と同じ双子腹 と言われ嫌われてい

たので、もう一人の子供は死んだ事として扱われた見

たいですね 

神主として生涯を終えたと言われていますが、家康の

実子にも関わらず、生涯父・家康と対面する事はあり

ませんでした 

実子として認められた秀康の方が少しはましだったの

か?それとも、認知される事無く一生を終えた方がよ

かったのか? 

34歳亡くなった秀康を見ると、政争に巻き込まれる事

無く生涯を神職として終えた方が良かったのかも知れ

ないと思っている僕なのですが… 

 

 

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どうする家康、家臣こそ我が宝!!

2023-05-15 | 歴史

家康の具足を身に着け敵陣に向かっていく夏目広次

亡骸を検分した武田信玄は笑みを浮かべていました

 

遺体が家康ではないと確信したのでしょうか? 

家康の生存を喜んでいるかの様な信玄でしたが、一

流の武将にしかわかり得ない境地なのでしょうね 

 

今回のドラマでは、徳川家臣団の中であまりスポ

ットが当たる事の無かった夏目広次と本多忠真が主

役でしたね  

しんがりを務めた本多忠真と家康の具足を身に着け

身代わりとなった夏目広次。

 

本多忠真の父・忠豊も家康の父・広忠の身代わりと

なり討ち死にしていますので、親子二代、主君の替

わりとして討ち死にした事になります 

本多家はよほど忠義心の強い家だったのでしょうね 

 

夏目広次は浜松城の留守居を務めていたのですが、

本来出陣する役目ではなかった筈です 

家康の為に死ぬという覚悟の許、死に場所探してい

た感じすらします 

広次の申し出に「駄目じゃ、吉信、駄目じゃと」と

一旦は拒否する家康ですが、「足りませぬ、一度な

らずも二度までも、この不忠者を、ここまで取り立

てて下さった。これしきりの恩返しでは足りませぬ」

と広次。 

悟った様な広次の言葉に返す言葉を無くした家康で

したね

「殿はきっと大丈夫」と親が子に諭すような広次の

言霊は、家康を包み込むような父親そのものの様な

気がしたのは僕だけでしょうか?

ところで… 

忠真と広次の他に家康の身代わりになろうとした家

臣がもう一人

鈴木久三郎です 

家康の身代わりになろうとした久三郎でしたが、家

康に拒否されます 

久三郎は家康から無理やり軍配を取り上げ敵陣へと

まっしぐら。 

旗を地面にさし「ここから先には行かせん」と仁王

立ちしたとか? 

本多忠真や夏目広次は壮絶な討ち死にを遂げますが、

久三郎は二人と違い無事生還したと言われています

久三郎は家康と同じく強運の持ち主だった見たいで

すね

 

家康は三方ヶ原での大敗がよっぽど答えたのか?自

分を戒める為なのか?「家臣こそ我が宝」と事ある

ごとに言っていたと言われています。 

とっくに死んでいたであろう自分の人生を振り返る

と、家臣に生かされていると思わざるを得なかった

のでしょうね 

 

歴史の表舞台に出る事が少ない武将を描いた今回の

ドラマは、個人的には見応えのある最高のドラマだ

ったと思っている僕なのですが…

 

 

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どうする家康、桶狭間の戦いがよぎったのかも??

2023-05-08 | 歴史

圧倒的な強さを誇る武田軍ですが、武力ばかり

ではなく策略で徳川軍を追い詰めていきます

家臣達に背中を押され、信長にはも激励され、

武田軍との戦いを決めた家康ですが、破竹の勢

いで攻め上る武田軍には成す術がなさそうです 

 

結果的に信長包囲網に加わった形となった信玄。 

家康にも信長包囲軍に加わる様に足利義昭から

打診があった見たいですね

武田軍は手始めに徳川領の二俣城を包囲します

が、頑強に抵抗し二か月持ち応えたと言われて

います

武田軍の次の目標は浜松城と思われましたが、

何と、信玄は浜松城を素通り 

家康にとってはラッキーと言えばラッキーなの

ですが… 

このまま武田軍を追撃するか? 

遅ればせながら信長包囲網に加わるか? 

武田軍を追撃するか? 

三つの選択肢があったのですが、どうする家康

ですよね

 

信玄にとっては最初から追撃してくると思って

いたのか?追撃してくる様に仕向けたのか? 

何れにしても、徳川の監視役でもある佐久間信

盛が信長からの援軍として加わっている以上信

長包囲網にも加われず、さりとてこのまま見過

ごす事も出来ない家康にとって追撃するしか道

は残されていなかったのです 

遠江を支配している家康ですが、二俣城でも負

け、このまま指をくわえて武田軍を見過ごせば、

「徳川頼りにならず!!」と支配して間もない遠江

の国衆達が武田軍に加わる可能性が大きくなり

ます 

落城した兵達も加え膨れ上がっている武田軍の

前では、蛇に睨まれた蛙状態の徳川軍ですね

 

最近の説では、浜松城を通り過ぎ岡崎城に向か

うと見せ掛け、武田軍が向かったのは浜名湖水

運の要・堀江城だったと言われています 

三河からの補給路としてばかりではなく、援軍

の通る要所としても重要な城だったようです 

たとえ浜松城で籠城したとしても、堀江城を武

田軍に抑えられた状態では籠城する事すら出来

なくなります

もはや討って出るしか選択肢が残されていなか

ったと言う事でしょうね

武田軍が浜松城を素通りしたのではなく、野戦

に持ち込むための信玄による緻密な策略に乗せ

られたと言う事なのでしょうかね? 

本多忠勝ではありませんが、十に一つの可能性

に掛けるしかありません 

もしかしてこの時、家康の脳裏には桶狭間の戦

いがよぎったのかも知れませんね 

信長に出来たのだから自分もと思ったとしても

不思議ありません。 

三方ヶ原の戦いでは有能な家臣をたくさん失っ

た家康にとっては、あまりに代償が大き過ぎま

したが、姉川でも三方ヶ原でも裏切らなかった

という家康の人物評価が世間に衆知された事だ

けは確か

そういう意味で、三方ヶ原の戦いはその後の家

康にとっても無駄な戦いではなかったと思って

いる僕なのですが…

 

 

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どうする家康、堪忍袋の緒が切れた信玄!!

2023-05-01 | 歴史

信玄との戦いが始まろうとしているのに煮え切

らない家康

弱気が極限状態の家康に、何もかもくれてやっ

て、信玄のもとでみじめに生きていけばいい」

などと言いたい放題 

武田軍と戦えば「十に九つは負ける」と絶望を

口にする家康にですが… 

「十に一つは勝てる。その一つを信長は桶狭間

でやりましたぞ」と本多忠勝起死回生の一言

ようやく信玄と戦うのを決断した家康ですが、

家臣達は最初から戦うのを決断していた見たい

ですね

それにしても …

源三郎・勝俊、最初は今川、次に武田とまるで

人質になる為に産まれて来た様なもの 

武田から逃げ出す時、両足に凍傷を負ったと言

われています

何とか三河には戻れましたが、凍傷のため両足

の指を切断したので武人として戦場に出る事も

出来ず失意のうち32歳の若さで亡くなります 

人質生活を送るうち、精神的にも肉体的にも限

界に達していたのでしょうね。 

同情を禁じえません

 

ところで、信玄は何のために西上したのでしょ

うか? 

足利義昭を盟主とした、朝倉・浅井・石山本願

寺などの信長包囲網に加わり、信長亡き後の主

導権を握ろうとしたからなのでしょうか? 

しかし、義昭が反信長の態度を明らかにしたの

が1573年で、信玄が西上したのが前年の1572年

です 

信玄が甲府を発った時点では信長包囲網があり

ませんでした。 

勿論、信長包囲網が必ず出来るとの確信の上の

出陣と言えなくもありませんが、出来てもいな

い信長包囲網に加わる為に態々大軍を動かすほ

ど信玄は愚かではありません

信玄が西上した一番の要因は徳川と上杉との同

盟が原因だったのではないのでしょうか? 

背後に控える上杉が信玄にとって最も脅威だっ

たのは間違いありません

しかし、北条氏康が亡くなり、後を継いだ氏政

は180度方向転換し信玄と同盟を締結

これをきに上杉への押さえとして北条が動き始

めます 

これで背後から攻められる心配がなくなった信

玄は、目先の瘤・徳川を取り除くため出陣した

のです

勿論、その先には信長殲滅も視野に入っていた

筈です

周りを敵に囲まれて身動きが取れない状態だっ

た信玄の堪忍袋の緒が切れたと言った感じでし

ょうか

ドラマでも体調の悪化が描かれていましたが、

その辺りも西上を急がせた要因なのかも知れま

せんね

 

 

 

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