戦の度に死んでいった兵達の為なのか?南無阿弥陀仏
と念仏を写経していた家康ですが、自分の寿命が尽き
るのを悟った様に南無阿弥家康と書いていましたね
この戦が長い乱世の最後の戦いだと確信していたので
しようか?
気弱で優柔不断でも人殺しを平気でおこなえるように
なる魔界の世界、それも乱世なのでしょうかね?
大阪の陣を最後の戦にするとの強い意志が南無阿弥家
康の念仏に感じてしまいます
「乱世を生きるは、我らの代で十分。子どもらにそれ
を受け継がせてはなりませぬ。私とあなたですべてを
終わらせましょう」。「私の命はもう尽きます。乱世
の生き残りを根こそぎ引き連れて滅ぶ覚悟にございま
す」との家康からの手紙で家康の思いを理解したかに
見えた淀殿ですが、淀殿自ら戦を中止にするとは言え
ませんでしたね
決断を息子・秀頼に委ねますが、「余は戦場でこの命
を燃やし尽くしたい。皆の者、天下人は断じて家康で
はなく、この秀頼であることこそが、世のため、この
国の行く末のためである」と家臣達に語ります
「徳川を倒し共に乱世の夢をみようぞ」と打倒徳川を
宣言しますが、乱世の夢とは一体何なのでしょうか?
乱世を終わらせると言う使命感が全く感じられません
純粋培養で育った秀頼の限界を感じてしまいます。
この宣言に幼さを感じてしまうのは僕だけでしょうかね?
ところで
豊臣家の家老とも言われている片桐且元手ですが…
豊臣と徳川の対立を避けるべく奔走した人物ですが、豊
臣家の財政・外交を取り仕切る存在でもあった様です
且元には徳川家と決定的に対立すれば豊臣家は滅亡する
との関心が有ったのでしょうね
且元以外に政治能力のあった家臣は一人もいなかったと
言うのが豊臣家の実情ですが、その且元を廃除しようと
画策していたのが信長の弟・織織田有楽と大野治長です
豊臣家では且元と織田有楽・大野治長 との間での権力闘
争で且元暗殺未遂まで起きています
織田有楽と大野治長に政治能力が有れば別ですが、権力欲
だけではどうしようもありません
豊臣家が滅亡に向かったのは且元追放で決定的です
且元は秀頼と淀殿が亡くなった20日後に亡くなったと言わ
れています
且元は淀殿の父・浅井長政に仕えていましたので、淀殿に
対する忠誠心はかなりのものが有ったと思われます
豊臣家中で一番の忠臣といって良いのかも知れません
そんな且元ですから、おそらく、豊臣の滅亡を見届ける様
にひっそりと亡くなったのでしょうね
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