函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

どうする家康、家康暗殺計画??

2023-10-30 | 歴史

佐和山に隠居した三成ですが、家康はこの機に乗じて

伏見城から大阪城西の丸に移っています 

ドラマでは…

上杉景勝の謀反の噂が広がると茶々が家康を焚きつけ

ていましたね 

裏では三成には軍資金を与え、上杉討伐に向かった家

康の隙を突き挙兵させ、そればかりか、家康に「三成

が怖い。」と手紙まで送るとは稀代の悪女そのもの

茶々ばかりではなく、上杉景勝も毛利輝元も家康を廃

除して実権を握ろうとしていた節もあります 

家康が単に言い掛かりをつけ上杉討伐をした訳でもな

さそうです。 

特に輝元は連絡を受けてから僅か二日で大阪に到着し

たと言われています 

やる気満々ですよね

秀吉ですら岡山から戻るのに十日も掛かっていますが、

それより遠い広島からなので驚きの速さです 

勿論、陸路と海路からの違いがあるにせよ当時として

は異常な速さです

輝元の意気込みを感じますね 

武将たるもの天下の覇権の前では皆同じなのかも知れ

ません

 ところで 

家康は伏見城で政務をとっていましたが、加藤清正を

はじめとする七将が石田三成の伏見城内の屋敷を包囲

する事件が起こります。 

仲裁に乗り出したのが家康です

正確には家康と北政所の二人です 

結果、三成は居城の沢山へ退く事になりますが、この

事件から間もなく、増田長盛からの密告で家康暗殺計

画が家康に告げられます 

首謀者は前田利長で浅野長政や大野治長、土方雄久ら

が大阪城内で家康暗殺を目論んでいると言うのです 

重陽の節句の折、秀頼に挨拶をするため大阪城へ来る

家康を亡き者にしようと言う企みです 

危惧した家康は伏見から家臣を呼び寄せ厳重な警護を

させたと言われていますが、どうも胡散臭い臭いがし

ますよね

家康陣営が態と流布した偽情報だと言われていました

が、前田利長も浅野長政もどちらかといえば家康に近

い人物です 

最近では家康陣営を不利にするため三成側が流した情

報だとも言われていますが、密告したのが増田長盛だ

とすれば有りえる話です 

そうだとすれば、五大老・五奉行制を崩したのは三成

自身とだとも言えますし、情報を流したのが三成だと

すれば策士策に溺れた 感が否めません

この暗殺計画に乗じて家康は堂々と大阪城へ居座る事

が出来たのですから…

この一件を見ても、家康と三成の器の違いを感じてし

まうのは僕だけでしょうか?

何れにせよ関ケ原の戦いへのカウントダウンが始まった

様です ね

 

 

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どうする家康、因果応報!!

2023-10-23 | Weblog

秀吉の遺言に従い五大老・五奉行による政治が

始まりましたね

殆どの大名が、幼い秀頼を担いだ政権運営が長

くは続かないと思っていた筈です 

五大老の中でも、上杉景勝や毛利輝元などはさ

っさと自国に戻っていますよね 

次の戦に備えていたと見られても不思議ありま

せん

家康は跡取りの秀忠を江戸に戻し伏見城で政務

をとっていた見たいです 

織田信長・信忠親子の二の前にならない様に、

京都と江戸に分かれているところを見ると不穏

な空気を感じていたのでしょうか? 

前田利家が生きている間はどうにか収まってい

ましたが、亡くなると歯止めが利かなくなりま

「皆、貴公が怖いのよ。貴公は腹を括るしかな

い。」と言った利家の言葉が全てを物語ってい

る様な気がします

利家も生きている間は秀吉の思いに沿う動きを

するしかありませんが、亡くなった後は家康が

天かを治めるしかないと思っていたのでしょう

か?

武人の利家には、家康が天下に号令するのが必

然だと思っていたと個人的には思っています

力の有る者が天下を治めないと戦国の世に逆戻

りしてしまいます

清須会議で信長の孫・三法師を織田家の当主と

決めましたが、その決定を済し崩しにしたのは

秀吉ですよね

力を持った秀吉が、織田家から政権を簒奪した

のは紛れもない事実です

自分がした事と同じ事を家康がしただけなので

す。

言ってみれば、因果応報。

頭脳明晰な秀吉なら分かっていた筈ですが、あ

まりに衰弱し過ぎたのでしょうかね?

幼い当主が政治を司る事など無理だと言う事を…

秀吉の晩年は普通の人に戻った感じが強くしま

すが、それも人間らしくて憎めないところかも

知れません

豊臣家は滅亡しますが、秀吉の偉業は色褪せる

事はありません。

中国では平民から皇帝になった人物はいますが、

日本では秀吉ただ一人

秀吉が立志伝中の人物なのは間違いありません

 

 

 

 

 

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どうする家康、豊臣政権のナンバー2!!

2023-10-16 | 歴史

秀吉が遂に最後の時を迎えます

家康を呼び出し、「うまくやりなされや」と後を託した

秀吉ですが、天下の事よりも秀頼の生末しか頭にない様

でしたね 

稀代の英雄秀吉も老いには勝てない様です

「秀頼は、あなたの子だとお思い?」と問いかける茶々。 

てっきり、実の父親を告白するのかと勘繰りましたが、

「秀頼は私の子。天下は渡さぬ」と… 

「あとは私に任せよ、猿」と言い放つ様は、亡き母・お

市を彷彿させます

茶々の言葉を聞き何故か笑みを浮かべる秀吉ですが、も

しかして、秀頼が自分の実子だと確信しての笑みなのか

も知れません

絶命した秀吉を抱きしめ泣き声を上げる茶々ですが、

吉に対する愛情が無かった訳でもなさそうでしたね 

単に情だけなのかも知れまらせんが、心の奥底は凡人の

僕には理解し難いものがあります

ところで… 

家康は朝鮮従軍から除外されています よね。

何故なのでしょうか? 

地理的に遠い事は事実ですが、それだけが理由ではなさ

そうです 

朝鮮出兵中に東で反乱が起きないともいえません 

そこで重要なのが、関東に250万石を有し、睨みを利かせ

る事が出来る徳川です

 天下人となった秀吉ですが、政権の基盤はそれほど盤石

なものではありません。 

いくら庶民に人気があっても、それだけでは長続きしま

せん 

周りは農民出の秀吉よりはるかに出自が良い武将ばかり。 

そこで欠かせないのが、信長の同盟者だった家康の存で

 

本気で徳川を潰したければいくらでもチャンスがあった

筈です。 

それをしなかったのは、家康の武将としての存在感が豊

臣政権に必要だったとも言えます 

待遇を見ても、政権ナンバー2の秀吉の弟・秀長と同等の

処遇をしているところを見ても明らかです。 

織田政権の簒奪者とも言える秀吉にとって、徳川という

重しは政権維持に欠かせないものだったのかも知れませ

 

 

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どうする家康、秀吉の子供??

2023-10-09 | 歴史

秀吉の心に入り込んでいる茶々ですが、今度は家康

の心にも入り込もうとしていましたね

そこに登場したのが家康の側室阿茶局。 

茶々VS阿茶の戦いの始まりです 

 

唐入りを何とか止めようとする家康ですが、「図に

乗るなよ。わしは太閤じゃ。その気になれば、徳川

くらい潰せるぞ。」と逆に脅しをかけられます 

そんな秀吉に怯む事無く「かつての底しれぬ強さが

あった秀吉ならばそんなことは口にすまい。」 「目

を覚ませ、惨めぞ、猿。」と…

そんな一触即発状態で登場したのが、すっかり忘れ

去られていた足利義昭 

義昭の何とも言えないキャラクターのお陰で二人の

言い争いも中断となってしまいます 

二人の争いを知ってか知らずか、義昭の語った「て

っぺんは独りぼっちじゃ。」 「信用する者を間違え

てはならんのう。」の言葉に秀吉も我に返った様で

したね 

家康に対し、「わしを見捨てるなよ」と口にする秀

吉の言葉には裏表がなかったのではと思ってしまい

ます 

ところで… 

淀殿だけに男子が二人も誕生したのは何とも不思議

ですよね 

当時から大野治長や石田三成が父親だと言われてい

ましたが、果たして真相は??

秀吉の子供と言われているのが、長浜城時代に側室

南殿が産んだ石松丸です 

それにしても、女性好きでかなりの側室を侍らせて

いた秀吉にとってあまりにも子供の数が少な過ぎま

すね 

もしかして、石松丸も秀吉の実子でないのではと個

人的には勘繰っています 

そんな秀吉の晩年に、2人も子供を授かるなんてあ

るものなのでしょうか?

絶対は有りませんが、限りなくゼロに近いのでは… 

二人の子供の父親が秀吉でない事だけは間違いない

と思ってる僕なのですが…

 

 

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どうする家康、氏綱の遺言!!

2023-10-02 | 歴史

北条家を潰し、遂に天下人となった秀吉の暴走が

止まりそうにありませんね 

息子・鶴松が病死してしまいますが、その悲しみ

を糧にするかの様に高笑いを始め、「次は何を手

に入れようかの。」と囁く下り… 

精神的に壊れていく人間の愚かさを感じてしまい

ます

欲望でしか悲しみを補う事が出来ないものなので

しょうか? 

死ぬまで秀吉の暴走は止まりそうにありませんね

戦が無くなった後の平穏な世の中を維持する術が

秀吉には無かったのかも知れません。

ところで… 

小田原北条氏の初代は早雲ですが、早雲は伊勢宗

瑞 と名乗っています

姓を北条と称したのは、傑物と言われた二代・氏

綱からですね

氏綱は54歳で亡くなりますが、26歳と若い跡取り・

氏康に遺訓を残しています

その中に、「義を守りての滅亡と、義を捨てての

栄華とは天地格別である」とあります 

お家大事の戦国の世にあって、「義がなければ家

名を保ってもしかたがない、義を守っての滅亡の

方がましだ。」と息子・氏康を諭しているのです 

この考え方が氏政・氏直親子にも脈々と伝わって

いたのでしょうか? 

氏康の後を継いだ氏政と息子の氏直の時に北条家

は上野・信濃・甲斐へと進出し北条領国の最盛期

を迎えます

遺訓を守り質素倹約に努め、善政を敷き、領国経

営を続けたたまものです 

氏政親子は決して秀吉に対抗しようと思っていた

訳ではないと個人的には思っています。 

家臣は別として、北条家の歴代当主は天下への野

心はなく、天下へ号令しようとも思っていなかっ

た筈です 

自分たちの治めている関東は自分たちの手で守り

たかっただけなのでは… 

返す返すも、「義を守っての滅亡の方がましだ。」

と言い残した氏綱の遺訓が悔やまれます

綺麗事だけでは家名を残す事が出来ませんが、氏

政親子の行動には清々しさを覚えるのも事実です 

秀吉という、最下層から最高権力者に成り上がっ

たにわ者には臣従は出来ないというプライドが邪

魔したのかも知れません? 

信長や家康だったらおそらく臣従していた筈です 

裏を返せば、秀吉を見下していたと言う事なので

しょうかね ??

 

 

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