函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

関ヶ原!!

2009-09-22 | 歴史
いよいよ関ヶ原
東では上杉が最上の長谷堂城攻めに取り掛かろうとして
いますが、西では三成一世一代のおお戦です

小早川秀秋、実質的に関ヶ原の勝敗を決めたのは彼です

その秀秋に東西の陣営から矢の様な催促
その彼には三成からは関白、家康からは二カ国加増の提
示が…

常識的に考えると関白の方がはるかに良い条件だとは思
いますが、秀秋には秀次事件がとらうまになっていた様
です
実際、戦いのあと発狂して亡くなったと言われている秀
秋ですがかなりの小心者だったのでしょうか??
ドラマの中だけではなく実像の彼も関白就任までは望ん
でいなかったのかも知れませんね

西軍に加担して関白になったところで似た様な運命を辿
ったのかも知れません。
どちらに転んでも一国を束ねる器ではなかった秀秋、悲
劇の武将ですね

ところで
元々三成と武断派と呼ばれる武将達はそれほど仲が悪か
った訳ではないのです
全ては朝鮮出兵から始まったと言っても過言ではありま
せん

秀次事件もそうですね。
連座を恐れた武将達がその後ほとんど家康に近づいてゆ
きます。
家康の執り成しで連座責任を逃れた武将達は家康配下と
なってゆくのですが、必然性があった訳です。

元を糺せば秀吉自ら豊臣政権崩壊の火種を作ったという
事になりますね
秀吉は全国統一を成し遂げましたが、どうやらそこまで
が秀吉の限界だった様な気がしてなりません
豊臣秀長死去→朝鮮派兵→豊臣秀次切腹→前田利家
死去と豊臣家は徐々に崩壊の道を辿っていきます

1600年、いまや徳川家康に面と向かってものが言える大
名はいなくなったのです
秀吉の遺言にも関わらず伏見城から大阪城に入り大名に
対する仕置きも独断で行うようになった家康。
徳川家と他の大名との縁組も秀吉が定めた法を無視する
かのように進めます
もはや事実上の天下人ですよね
その天下人に対して果敢に戦を挑もうとしている石田三
成。
石高からいっても家康とは比べ物になりませんが、情熱
だけを武器に家康に挑もうとしている姿には一服の清涼
感を覚える僕なのです

日本の歴史上最大の戦い関ヶ原。
結果的には東軍の勝利に終わりましたが、どう転んだか
分からない戦だと僕は思っています。
関ヶ原の戦いが長引けば長引くほど勢力地図もがらりと
塗り替えられた可能性があったのでは…
大戦の割にはあまりにも早く決着がついたのが西軍にと
って誤算だったのかも??

九州では黒田如水が勢力を広げ虎視眈々と上洛を狙って
いました
東では上杉景勝と密約を結んでいたのが佐竹義宣
東軍に就くべきと主張する重臣と父・義重を内に抱え身
動きが取れなかった様です

ドラマでは家康に金魚の糞の様に近づいている伊達正宗
ですが、もし?上杉と伊達が盟約を結んだのなら…
確かに佐竹と伊達は犬猿の仲
この二家を繋ぐのは至難の業かも知れません
しかし事実上の天下人・家康に挑むには離れ業を仕掛け
るしかないのです。
それを成し遂げられるのは兼続が適任だったと僕は思っ
ています。
あくまでも個人的なシュミレーションですが…

さて
いよいよ徳川の時代の始まりですが、すんなりといかな
いのもこの時代のややこしいところ
形式的な主・豊臣秀頼がいるのです。
三成憎しで東軍に味方した武断派ですが、自分で自分の
首を絞めた事にはまだ気付いていない様ですね。

絶対的な武力を背景に幕府を開く家康の前にはなすすべ
がありません。
老境に差し掛かった家康ですがいよいよ最後の仕上げ、
豊臣潰しに動き出すのです



サポグラ 9月号 のCMです






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする