やはり習慣の違いは如何ともし難いのです
京風と江戸風、朝廷と武家では全く違うのですね。
どちらかが歩み寄らなければ…
それにしてもさすがの滝山もすっかり天璋院派に
なりましたね
『たまに羽目を外しますか』と滝山。
『そうこなくては』と天璋院。
最初は拒んでいた滝山ですが…
二人だけの宴会が始まったようですね
一方
奄美から西郷さんが帰ってきましたね
国父・久光との初対面の席で『上洛は無謀かつ時期
尚早であり、当主でもなく官位のない久光にできる
ことは何もない』と言い切ってしまいましたね
なにも『一介の地ごろ』とまで言わなくともよいと
思うのですが…
前藩主・斉彬が次期藩主に久光の息子・忠義を指名
した時も斉彬とほとんど口を聞かなかったといいます
尊敬している斉彬にさえそうなのですから久光にも
の申すのも西郷にとって大した事ではないのです。
もしかすると西郷は、亡き斉彬の意思を継ぐと断言
した久光を試そうとしたのか、それとも単に久光の
器量を図ろうとしたのかも知れません
単純に考えれば当主になるか官位を貰えと云ってい
る様にも聞こえるのですが…
そうしなければ諸侯は付いてこないと西郷は確信し
ていたのでしょうね。
やはり西郷にとって斉彬が無二で唯一の主君だった
のは間違いない様です
しかし、流石に言われた久光は激怒
帯刀の説得によりその場は何とか収まりましたが、
遺恨が尾を引きそうな感じですね
ところで、
誠忠組と精忠組どちらが正しい呼び名なのでしょう
か??
精忠組の方が一般的な様な気もするのですが??
実はどちらの名前も当時は使っていなかったのです
少なくとも彼等自身が誠忠組や精忠組を名乗った事
実はないのです
どうも明治以降の命名らしいのです
意気盛んな若者たちが集まって明日の薩摩や日本の
事を真剣に純粋に考えていたのは間違いない様です
結社といったところでしょうかね
ちなみに、大久保の日記に「精忠士面々中」と書い
てあるのですが、どうもそこから後の人が命名した
と云うのが真相らしいですね
サポートグラスのCMです →
京風と江戸風、朝廷と武家では全く違うのですね。
どちらかが歩み寄らなければ…
それにしてもさすがの滝山もすっかり天璋院派に
なりましたね
『たまに羽目を外しますか』と滝山。
『そうこなくては』と天璋院。
最初は拒んでいた滝山ですが…
二人だけの宴会が始まったようですね
一方
奄美から西郷さんが帰ってきましたね
国父・久光との初対面の席で『上洛は無謀かつ時期
尚早であり、当主でもなく官位のない久光にできる
ことは何もない』と言い切ってしまいましたね
なにも『一介の地ごろ』とまで言わなくともよいと
思うのですが…
前藩主・斉彬が次期藩主に久光の息子・忠義を指名
した時も斉彬とほとんど口を聞かなかったといいます
尊敬している斉彬にさえそうなのですから久光にも
の申すのも西郷にとって大した事ではないのです。
もしかすると西郷は、亡き斉彬の意思を継ぐと断言
した久光を試そうとしたのか、それとも単に久光の
器量を図ろうとしたのかも知れません
単純に考えれば当主になるか官位を貰えと云ってい
る様にも聞こえるのですが…
そうしなければ諸侯は付いてこないと西郷は確信し
ていたのでしょうね。
やはり西郷にとって斉彬が無二で唯一の主君だった
のは間違いない様です
しかし、流石に言われた久光は激怒
帯刀の説得によりその場は何とか収まりましたが、
遺恨が尾を引きそうな感じですね
ところで、
誠忠組と精忠組どちらが正しい呼び名なのでしょう
か??
精忠組の方が一般的な様な気もするのですが??
実はどちらの名前も当時は使っていなかったのです
少なくとも彼等自身が誠忠組や精忠組を名乗った事
実はないのです
どうも明治以降の命名らしいのです
意気盛んな若者たちが集まって明日の薩摩や日本の
事を真剣に純粋に考えていたのは間違いない様です
結社といったところでしょうかね
ちなみに、大久保の日記に「精忠士面々中」と書い
てあるのですが、どうもそこから後の人が命名した
と云うのが真相らしいですね
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