天下の名将、武田信玄でも嫉妬するのです
『勘助がいたから負けなかった』と言われれば
晴信の立つ瀬がないですよね
この一言がきっかけで、その後の「上田原の戦い」、2年後の
砥石崩れへと続くわけです(今回の脚本では)
全く悪女ですよね(今回の脚本では)
この2回の戦いで、板垣信方・甘利虎泰・横田備中をはじめ
名立たる武将が討ち死にするのですから武田の大敗です
結局武田家も、諏訪大明神の化身である由布姫によって滅ぼさ
れたと言っても過言ではありませんね。
砥石崩れの大敗の後活躍するのが、知将真田幸隆です。
いよいよ幸隆の活躍が始まります
個人的にはとても楽しみにしているのですが…
あとは謙信ですよねー。
チラッと写ったガクト君。妖艶で神秘的な謙信を演じてくれそうです。
実は、僕が最近興味を持っているのが「謙信女性説」なのです。
近々、このブログにも載せようかと思っていますが、中々興味
深い説だと思いますよ
ところで
躑躅ヶ崎館と言えば信虎・晴信・勝頼の武田三代の居城ですよね。
『人は城、人は石垣、人は堀、情けは見方、讐(あだ)は敵也』
信玄の言葉として伝わっている有名な一節ですね。
人に対する信頼や人間関係(外交)を重視し、部下には情けをかけて
用いれば、堅固な城など築かなくとも国は守れるという戒めなのです。
だから信玄は堅固な城を作らなかったとも言われています。
はたして本当だったのでしょうか?
確かに躑躅ヶ崎の館は、大阪城や江戸城などと比べると貧弱に見える
かもしれません。
しかし当時の一般的な城と比べて見ても、規模やその構造から見ても
決して劣るものではなかったのです。
復元された設計図を見ても、かなりの規模で、複雑な構造になっている
のです。
敵が城内へ侵入しても、簡単には入れないようになっていたといいますが
さながら、テレビで見る忍者屋敷の様なイメージでしょうか??
又、躑躅ヶ崎館の背後は標高800㍍弱の山がそびえているのですが、
その山の頂上付近には積翠寺(せきすいじ)城と言う山城まで築いて
いたのです。
さすが信玄、手抜かりはないですね。
万が一、敵が攻めてきても積翠寺城に立て篭もり戦う事が出来たのです。
余談ですが、信玄が誕生したのも積翠寺城だったとも言われています。
信玄が亡くなり、四男の勝頼が武田家の後継者となるのです。
その勝頼が1581年に韮崎に新府城を築いて移り住みますが、その一年後
織田信長に攻め滅ぼされてしまうのです。
躑躅ヶ崎館から移り住んだばかりに、武田家の命運も尽きたと言えるかも
知れませんね
『勘助がいたから負けなかった』と言われれば
晴信の立つ瀬がないですよね
この一言がきっかけで、その後の「上田原の戦い」、2年後の
砥石崩れへと続くわけです(今回の脚本では)
全く悪女ですよね(今回の脚本では)
この2回の戦いで、板垣信方・甘利虎泰・横田備中をはじめ
名立たる武将が討ち死にするのですから武田の大敗です
結局武田家も、諏訪大明神の化身である由布姫によって滅ぼさ
れたと言っても過言ではありませんね。
砥石崩れの大敗の後活躍するのが、知将真田幸隆です。
いよいよ幸隆の活躍が始まります
個人的にはとても楽しみにしているのですが…
あとは謙信ですよねー。
チラッと写ったガクト君。妖艶で神秘的な謙信を演じてくれそうです。
実は、僕が最近興味を持っているのが「謙信女性説」なのです。
近々、このブログにも載せようかと思っていますが、中々興味
深い説だと思いますよ
ところで
躑躅ヶ崎館と言えば信虎・晴信・勝頼の武田三代の居城ですよね。
『人は城、人は石垣、人は堀、情けは見方、讐(あだ)は敵也』
信玄の言葉として伝わっている有名な一節ですね。
人に対する信頼や人間関係(外交)を重視し、部下には情けをかけて
用いれば、堅固な城など築かなくとも国は守れるという戒めなのです。
だから信玄は堅固な城を作らなかったとも言われています。
はたして本当だったのでしょうか?
確かに躑躅ヶ崎の館は、大阪城や江戸城などと比べると貧弱に見える
かもしれません。
しかし当時の一般的な城と比べて見ても、規模やその構造から見ても
決して劣るものではなかったのです。
復元された設計図を見ても、かなりの規模で、複雑な構造になっている
のです。
敵が城内へ侵入しても、簡単には入れないようになっていたといいますが
さながら、テレビで見る忍者屋敷の様なイメージでしょうか??
又、躑躅ヶ崎館の背後は標高800㍍弱の山がそびえているのですが、
その山の頂上付近には積翠寺(せきすいじ)城と言う山城まで築いて
いたのです。
さすが信玄、手抜かりはないですね。
万が一、敵が攻めてきても積翠寺城に立て篭もり戦う事が出来たのです。
余談ですが、信玄が誕生したのも積翠寺城だったとも言われています。
信玄が亡くなり、四男の勝頼が武田家の後継者となるのです。
その勝頼が1581年に韮崎に新府城を築いて移り住みますが、その一年後
織田信長に攻め滅ぼされてしまうのです。
躑躅ヶ崎館から移り住んだばかりに、武田家の命運も尽きたと言えるかも
知れませんね