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80分の1丁目16番地

ペーパースクラッチによる車両作りを中心に1/80、16.5ミリゲージの鉄道模型を楽しんでいます。

下河原線を走った101系・・・半世紀前の歴史をたどる

2023-08-19 19:22:09 | 中央東線周辺
前回クモハ40の記事を投稿したときは気にしていなかったのですが、下河原線の旅客営業が廃止されたのが1973年ということで、今年はそこから数えて50年目という節目の年に当たるわけです。むしろ「武蔵野線開業50周年」と言った方が「エエ!もうそんなに経つの?」という感覚になりますが、それはさておき、今回はその半世紀前に下河原線を走った(であろう)101系のことについて考察めいたことを書いてみようと思います。

当時を記録した文献やサイトはそう多くありません。クモハ40はまだしも101系に至っては残された写真はだいぶ限られるようです。
その中で注目されるのが「-70年代の追憶-  鉄道ファンだった頃」というHPの中にある「在りし日の下河原線」というページです。

更新が途絶えてから久しいと思われるページは作成者の名前・連絡先も表示されておらず分かりませんが、幸い、写真の引用・転載について「商業利用でなければ出典明記のうえ自由に使って差し支えない」との記載があるため、以下、同ページに掲載された写真を適宜引用させていただきながら考察していきたいと思います。


まずこの写真をご覧ください。終点東京競馬場前駅の2番線に置かれた停止位置目標(停目)をクローズアップした写真です。1973年3月31日の営業最終日に撮られたもので、上記ページではエピローグ的な余韻をもった文章とともに記事の最後に置かれた写真ですが、ここではプロローグあるいはインデックスの意味を込めて最初にご紹介することにします。

(出典:-70年代の追憶-  鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」)


見やすいように拡大します。一番手前に「5 旧」と書かれたイヤでも目に付く停目があり、その奥に上から順に「6」「5」「3」「1」と書かれた停目、そして一番奥に「7」と書かれた停目が見えます。最終日を含む晩年にはこれだけ多くの編成両数の列車が走っていたことを示す“動かぬ証拠”として大変興味深いものです。編成が短い順に見ていきたいのですが、「1」は言うまでもなくクモハ40の単行列車でしょう。頭端駅なのに一番奥にないのは出発信号機の視認性を考えてのことなのでしょうか。

(出典:-70年代の追憶-  鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」 ※部分拡大)


「3」は101系3連。競馬開催日(の開催時間帯?)にクモハ40に代えて運行されたようです。この当時の担当は武蔵小金井電車区(西ムコ)なので同所の付属3両編成が充当されたとみるのが妥当ですが、編成番号札がない写真もみられ、バラを寄せ集めて運行したケースの方が多かったのかも知れません。3両編成の写真は、例えば以下のページで見ることができます。
kiza5jp様?ブログ「鉄道写真 ☆101系☆」 (クモハ100-6、クハ101-66掲載 ※向きから考えるとクモハ101-6の間違い?)
「競馬ファンと101系(鉄道ホビダス「国鉄時代」)(天皇賞開催日に国分寺駅に進入する3両編成)
「さんたつby散歩の達人」内(「あの日の府中」から引用した写真を掲載 ※一番手前はパンタ台付クハ100)


「5」は、もう皆さん一番手前の「5 旧」が気になって仕方がないでしょうが(笑)中央の「1」「3」「6」停目と一緒のものについて先に述べます。これも競馬開催日に運行されたようですが、メインは北府中駅周辺にある東芝などの工場勤務者の通勤・退勤時に運行されたもののようです。「在りし日の下河原線」では、来訪者が増えた運行最終日や、競馬がない最終日近くにも走ったことが記録されています。


最終2日前の1973年3月29日に東京競馬場前駅で撮影された5両編成の101系です。番号は読み取れませんが編成番号札は「下河原23」と読め、下河原線専用の編成が組成されていたようです。他の写真から、東京競馬場前方から順にクモハ100-モハ101ーサハ101(又はサハ100改造車)ーモハ100ークモハ101と推定されます。先頭のクモハ101はテールライトが内バメ式の初期車で、編成中2基見えるパンタはPS13です。

(出典:-70年代の追憶-  鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」)


営業最終日の3月31日の5両編成の写真です。ものすごい人出のようです。手前2両分空きがあり東京競馬場前駅の収容力が最大7両編成だったことがよく分かります。線路に降りている人もチラホラ・・・。

(出典:-70年代の追憶-  鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」)


同じ列車が国分寺駅へ向けて帰ってゆくところの後追いです。実は(HP掲載の)この1つ前のカットから気になっていたのですが、後ろから2両目の国分寺寄の車端に奇妙な「影」があるように見えます。最終日なので車内から誰か顔や腕でも出しているのかと思いましたが違いました。

(出典:-70年代の追憶-  鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」)


拡大してみます。なんと乗務員ドアがついています!!屋根には手すりのようなものもうっすら写っています。クモハ101です。29日の編成のモハ101と交換したのでしょうか、それとも全く組み直した編成なのでしょうか。McーM'cといえば初期のモハ90系時代か後年の浜川崎支線ぐらいしか知りませんでしたが、こんなところでこっそり組成されていたとは!! 80分の1丁目はこういう香ばしい編成に即反応してしまいます。これはさっそく仕立てないと、、笑

(出典:-70年代の追憶-  鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」 ※部分拡大)


さて、お待たせしました一番手前の「5 旧」です。「旧」は旧型電車のことと推察されますが普通の5両編成とは何が違うのでしょうか。この時代の旧型といえばまだ73系が残っていて17m級も少数ながらまだ活躍していた時代。101系置き換え前は73系が上記の5連に充当されていたとのコメントを見かけましたが、クモハ11とか12も徒党を組んで入線していたのでしょうか。

いろいろ調べているうちにこんなコメントに出会いました。
「朝夕は昭和44年頃、確か73系4両プラスクハ16の5両編成が活躍したことがあります。その後は101系になったように記憶しています。」
(出典:モーガル(Mogul)工場日誌「下河原線の思い出(1)」


なるほど。徒党を組んだわけではなくて1両だけ17m級のクハがぶら下がっていたわけですね。しかし、1970年頃の西ムコにはまとまった73系の配置はなく、恐らく101系5両編成の代走として走ったとされる南武線中原電車区(西ナハ)の車両であった可能性が高いようです。
しかしクハ1両なら20m級との差はたかだか3mで、それにしては停目がずいぶん手前のように見えるので、何か違う事情があったのかも知れません。


そして「6」ですが、これが一番難解です。基本的には1、3、5、7連なので代走の可能性が高いのですが、何ゆえ?という感じです。組み方としては中央線の基本編成の7両から1両抜くなり、付属編成の3両を2編成つなげるなり、はたまた武蔵野線用に改造が済んでいた1000番台(ないないw)や南武線に入りつつあった黄色い101系が代走5連に充当??

これもいろいろ調べていくと、「休日の競馬開催日には、中央線と同じオレンジ色の101系電車が、確か6、7両編成で運転されていたと思います。」(たまらん坂 for ever「下河原線回想 その2」)や、「休日には競馬観戦用として、東京駅から東京競馬場前駅までの直通電車が走り、中央線の 101 系車両(6-7両編成)が直通運転されていました。」(東京都立多摩図書館 東京マガジンバンクカレッジ 多摩の廃線に関する勉強会:旧下河原線チーム「旧下河原線沿線探訪」)など、休日の「競馬臨」で走ったとみられる記述が目立ちます。つまり、5両編成の代走ではなく7両編成の代走説が有力ですが写真は見つかりませんでした。


最後の「7」は下河原線で運行できる最大両数で、上述のように競馬開催日に東京駅や千葉(千葉駅かどうか不明)から走った臨時電車のことを差します。競馬開催日とはいえそこまで広域から集客するのは、ダービーや天皇賞のような重賞レースの日に限られたのではないかと思いますがどうなんでしょうか。

これはシンプルに101系基本編成と考えられますが、総武線でも運転されていたことは初めて知りました。以下の書籍の「秋葉原駅」のページに顔だけですが停車中の101系(中野電車区のNo.14編成)の姿が記録されています。千葉発だとして延々各駅停車で走ったのか快速運転されたのか興味あるところです。検索できる方は探してみてください。
・生田誠 著「懐かしい沿線写真で訪ねる 総武線・京葉線 街と駅の1世紀」


ということで、見てしまったからには101系5連の“変態つなぎ”を再現すべく、仕込みを開始したいと思います。(あ~あ、、)

最後になりますが、貴重な写真やコメントを引用させていただいた「在りし日の下河原線」はじめ、各HP・ブログ管理者の皆様に御礼申し上げます。ありがとうございました。



下河原線のクモハ40

2023-08-17 00:21:51 | 中央東線周辺
これは割と最近買ったものなので、そう開封を急ぐ必要もないのですが、西武E851との絡みがあるので開封・整備していこうと思います。KATOのクモハ40(1-422)で、パワトラから両軸駆動に変更された再生産ロットのものです。



今回はこれを下河原線運用時の姿に仕立てます。下河原線は、中央本線国分寺駅から東京競馬場前駅間5.6kmを結んでいた中央本線の支線で、1973年(昭和48年)3月31日付でその役割を新たに開通する武蔵野線に譲って廃止されました。途中の北府中駅から分岐して多摩川に接する下河原駅まで結ぶ貨物線もありましたが、それもほどなく廃止され、現在は全線のほとんどが緑道として整備されています。

KATOの完成品なのでほとんどレディ・トゥ・ランの状態ですが、手すりなどいくつかのパーツはユーザーが取り付けなければなりません。楽しく遊ぶための儀式みたいなものと諦め、相変わらず上達しないウデを嘆きつつパーツをピンピン飛ばしながら何とか仕上げました。旧型国電カッコイイ!!



同線は、閑散時にこのクモハ40が単行で、多客時に3~7両の101系が運行されていたとのこと。晩年は武蔵小金井電車区(西ムコ)に配置された40071と40074が運行に当たっていたとの記録があるため、特に理由はありませんが40074にしました。付属のインレタには40071があるのでそのまま貼れば楽なのに、こういうところで天邪鬼な性格が出てしまいます。所属区名は「西トタ」しか付属しないので手持ちのインレタから「西ムコ」を貼りました。ちなみに40074は解体を免れ、現在は大宮の鉄道博物館で余生を送っています。



行先サボは「国分寺 東京競馬場前 間」という黄色のものが用いられていたようですが、これはしっかり付属シールに含まれていました。国分寺駅での101系との並びを再現。将来的にはここに西武E851が牽く貨物列車が加わる予定です・・・(超小声)。



さて、クモハ40の話はこれで終わりなのですが、下河原線を走ったとされる101系については謎に包まれた部分が多かったので色々調べてみました。その結果、意外な事実?も発見しましたので次の投稿でまとめてみたいと思います。場合によっては新たな“罪庫”が発生するかも??


八高線1980,昼下がりのクセ強め編成

2023-08-13 15:49:29 | 中央東線周辺
最近、買ったはいいが開封しない付属パーツも付けない“買いっぱ”車両が増えてきました。いけませんねぇ。。

そこで盆休み中にいくつか手を入れるべく、まずはTOMIXのキハ40 2000番台に火を入れることにしました。これは今年の3月に発売されたもので5か月寝かせての開封となります。キハ40欲しいけど中央東線と接点ないしなぁ・・・と諦めかけたところ、キハ35系のイメージが強い八高線にも一時期在籍していたと知って購入を決めたものです。



実車は1980年8月に高崎第一機関区に新製配置されたもので番号は2085~2089の5両。小所帯ゆえ付属のインレタには当該番号の収録なし。もちろん1文字ずつ拾ってもいいのですが、2000番台なら客車の余りインレタを探せばいくらでも出てくるだろうと安易に考えて探し始めたものの80番台が出てこない!結局最後の最後で見つかった「・オハネ17 2086」の番号部分を頂戴して2086号車に落ち着きました。



同じTOMIXですが微妙にセンが細い感じがします。ま、楽できただけでもヨシ!!



で、細かいパーツと格闘して前位のお顔のメイクが完了。当時の気動車編成は八王子方に貫通幌が取り付けてあったようなので、これを八王子向きの先頭車として運転しようと思います。ちなみに落成当初のアンドン幕は白地だったようですが、せっかく添付パーツがあるので紺地の「普通」を入れました。



後位側は、かなり張り出すエアホースをどうするか検討中。運転本位で省略するにしても取付穴がポツポツ見えてはカッコ悪いので、肘コックぐらいは付けておこうかと考えています。検査標記は四角枠だけプリントされていて、中身はインレタを貼れという指示ですが見事にズレましたw。もうほとんど何が書いてあるか見えない銘板は金属パーツで、一応上段に「日本国有鉄道」(らしい)と下段に「富士重工」(らしい)を貼っています。



乗務員ステップは、説明書では「ディスプレイモデルにしない場合は台車に当たるので省略せよ」と書かれていますが問題なく付きました。他の説明書の使い回しの修正漏れでしょうか。そもそもM付車両をディスプレイ用途では買いませんて、、。



ということで、キハ40 2086 高タカ一の運転整備完了です。



この車両は、今回のタイトルにもあるように八高線の4両編成のうちの1両として仕立てることにしています。年代想定は1980年8月8日になるべく近い日(笑)という超ピンポイント!その理由を追って説明します。



キハ40の隣につながるのは同じく朱色5号1色塗り(タラコ)のキハ36 43。去年の蒲田の模型ショーでツートンとともにゲットしてきたトラムウェイのB級品ボディのうちの1両です。詳しくは以下の記事をご参照ください。この時点ではツートンを1970年代、タラコをJR化後の電化前夜あたりに設定し2編成仕立てるつもりでしたが、今回、タラコをキハ40の寮車に変更しました。
購入直後のブログ記事
下回りを作成したときのブログ記事



ところでこのキハ36ボディ、出来はいいのにどこがB級品なのか何となく分かってきました。連結面が残念なことになっています。戸袋が左側なのは合ってますが、戸袋窓と開閉窓の大きさが反対ですわ。ご丁寧に窓ガラスパーツもこれに合わせて作られているため、「一見すると分からないが、やがて違和感に気づく・・・」という。。まさに走らせれば分からない部分なのでもちろんこのまま運行!



続いてキハ20 294。急行「うわじま」の編成見直しで余剰になっていたので呼び戻しました。1980年にツートンで残っていたのか確証はありませんが、1979年撮影とされる写真がネットで確認できるのでこのまま投入することに。天プラです。



しんがりはステンレスボディのキハ35 901。元々は「房総の海水浴気動車」用に買ったトラムウェイ製品で、銀ピカがいいので素のままにしていたのですが、千葉からの転入時にすでに巻いていた前面の警戒色帯を入れようと思っています。これも1979年警戒色、1981年タラコ・・・といった写真は確認できるものの1980年がすっぽり抜けているので、「残っていてくれ!」という願望を込めての警戒色です。床下機器のグレー化もしないとですね。。



1色塗りキハ35系のイメージが強い八高線で、ちょっとクセが強めな面々を集めた昼下がりの4両編成。これからも細かいところをブラッシュアップしていきます。


青梅線103系(4)

2023-02-25 19:17:36 | 中央東線周辺
クモハ103を組み立てました。これで4両すべての素組みが完了です。モハ102を動力車にしたのでこの車はトレーラーです。

車体の組み立ては他と同じなので例によって省略。φ11.5mm車輪付のDT33台車を使用するため心皿を0.5mm削ります。元々のモールドが横梁より0.5mm程度高くなっているので、横梁の高さを目安にカッターであらあら削り耐水ペーパーで水平に仕上げました。



床下機器を取り付けます。主抵抗器や主制御器が付くので4両の中でも一番密度が高く、重量もかなりなものになりました。トレーラーにしておくのがもったいないくらいです。



出来上がりはこんな感じ。2-4位側から。



反対側も撮りました。主抵抗器がデンと構える1-3位側こそクモハ103の真骨頂!笑



ここで誤算というか困ったことが。日光モデルの台車は改良を重ねるごとに精密化が進み、最新ロットのこのDT33もブレーキシリンダが別付けとなっていて非常に立体的です。その一方で、ブレーキシリンダが露出していないTR62では問題なかったクリアランスが取れずにステップが取り付けられませんでした。薄く削ったうえで車体側に接着するという手もありそうなのでモハ102ともども検討してみます。



4両編成の姿。手前からクモハ103-モハ102-サハ103-クハ103の順で手前が立川方、奥が青梅・奥多摩方となります。これからパテ埋めなど車体の仕上げを進めていきますが、車高もけっこうガタガタなので調整しないとですね。。。



青梅線103系(3)

2023-02-23 16:24:36 | 中央東線周辺
続いてクハ103を組み立てます。車体の組立て過程は変わらないので省略。

キットそのものの精度に加え、今回は車体下端やコーナーの接着面を目分量でゴリゴリ削っているので屋根を被せてみるとこんなすき間が開いたりします。しかし嘆いてはいけません。こういう部分をパテ埋めや削り込みで修正していくのもプラキットの醍醐味であります。なおテールライトケースはエコーの外ばめ式(No.3608)に交換しましたがヘッドライトも交換するか思案中。前面下部の通風口はt0.3プラ板を貼って塞いだ状態にしました。500番台なのでジャンパ栓収めナシです。



風が入りすぎる?とのことから晩年は塞がれてしまった通風口ですが、京浜東北線から転入した当初はまだ開口していた車両もあったようです。
「我が心の飯田線 103系列車編 青梅・五日市線編」(芝生將行氏HP)で貴重な姿を見ることができます(2、7、9枚目写真)。
奥多摩は寒いので早期に塞がれてしまったことでしょう。

ところで、このなかにはオレンジバーミリオンに塗り替えが進行する様子も捉えられており、スカイブルーとの混色編成も多々みられます。今回製作中のものはスカイブルー一色でいく予定でしたがちょっと揺らいできました。4両中2両をオレンジバーミリオンにするかも知れません。笑


下回りも純正の床下機器を使ったほぼストレート組みです。台車との干渉が危惧されたステップを試しに取り付けたところ問題なかったので他の車両にも取り付けることにしました。



ハンドブレーキホイール(赤丸)がないと寂しいので手持ちのエコーのパーツを取り付けました。恐らく旧型車用なので、古めかしいステーが見えないよう裏向きに接着してあります。あと、乗務員用ステップ(左端)はプラパーツを折ってしまったのでエンドウのものを取り付けました。



台車の回転チェック。これだけ回ればR610も問題ないでしょう。



3両目となるクハの鋼体があらあら完成。残るはクモハ103です。