とだ*やすこの「いまここ@島本」

暮らしの豊かさ最優先!
ひとが主役のまちづくり!

大阪府島本町議会議員
とだ*やすこの活動報告

議場に国旗掲揚条例化

2012年03月27日 | とだ*やすこの町政報告
昨日で平成24年度島本町議会2月会議が終わりました。予算編成についての議決事項など、本議会の最終本会議は、量的にも質的にももっとも重い議会です。終了は午後11時を過ぎました。長時間にわたって傍聴してくださったみなさん、ありがとうございました。ほんとうにお疲れさまでした。

第47号議案:島本町議会国旗等掲揚条例の制定については、賛成多数で可決されました。戸田は反対しました。

賛成 ◎川嶋(公明)◎伊集院・◎清水(自民クラブ) ◎菅・東田・山口・平井(山吹民主)
反対 平野・戸田(人びと) 河野・冨永・高山(共産党) 外村   
保留 藤原(山吹民主)
                                    ◎:提案議員

「条例(で定めるの)がいちばんは速い」「手っ取り早い(本当にそう言いました)」と悪びれもなく答弁する議員、日の丸は我が国の国歌であり「個人的に」掲揚には問題はないと考える(違和感がないと言ったかもしれません)と提案理由を述べる議員。「権利」を与えられた者がさしたる自覚もなく「権力」となることの怖さ、「民主主義の一番の欠点は多数決である」という言葉の重みをこのときほど痛感したことはない。

提案者の答弁をきいていて、日の丸への嫌悪感(議場にある国旗としての日の丸)を生まれてはじめて感じたといっても過言ではありません。これは予想だにしなかったことでした。しかし、これからです。ことの本質は、日の丸を掲げることで「はい、終わり」「残念」というような問題ではないからです。

戦争とアジアの問題、これに対する認識と評価については、歴史認識や歴史観の問題として整理すべきであり、日の丸や君が代はこれと区別して考えていくべきであるという考えがあります。

本当に悪かったのは何か、何が間違っていたのかを考えて、反省することは反省し、他の国の人たちにも理解をしてもらうようにあらゆる機会を通じて努力していくことが必要で、このことは、むしろ日の丸・君が代と区別して行った方が、本質に近づけるという考え方です(わたしのもとによせられた住民からの声)。実は、わたし自身、これに近い考えをもっています。

提案した議員は「旗が戦争をしたわけじゃない」「旗は人を殺せない」などと答弁していましたが、このことを言いたかったのでしょうか。おおざっぱで、無神経な表現と思われかねない言葉が、会議録に残されることになります。
常に日の丸は象徴的に語られているのが現実で、さらには、起立斉唱が「踏絵」的に扱われてしまっているのも事実です。

今回、島本町議会で起こった国旗掲揚問題は「条例化」して「義務付ける」という点が問題です。戸田はここに反対しました。既に多くの自治体が掲揚しているというのも事実ですが、わざわざ「条例化」しているところは多くないのです。

戸田の行った反対討論(読み原稿・メモから:実際には違う表現をしたところもある)をここに記載します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~^^

わたしは、日の丸を国旗とすることを否定するものではありません。わたしは日本を愛しています。しかしそれはナショナリズム(国家主義)的「愛国心」ではなく、パトリオティズム、「郷土を愛する心」です。

生まれ育った土地を愛する心です。他人からあえて教わらなくても、強制されなくても、心からわきあがってくる大切な想い。さまざまな困難に出会っても、家族とともに、隣人とともに、友人とともに、この国で、この島本町で幸せに暮らしていると思える愛郷的、愛国心です。

学校で教わったものでも、親から教えられたものでもなく、実はそれらに守られながら、人生の道筋のなかで自ら手にしたものです。それによって、わたしは、自由です。

わたしは、日本人であることに誇りをもっています。けれども、日の丸を掲げることでそれを表現したりはしません。なぜなら表現できないからです。
わたしは、今、島本町議であることを誇りに思っています。しかし、掲げられた町旗に忠誠を誓ったりはしません。

日本人として、一人の大人として、次世代に引き継ぐ国のかたちを、島本町議会議員として創造していけることに誇りをもっています。異なる考え、異なる立場に立つものが生きていくうえでの「信頼を支える公共」である基礎自治体のまちづくりを担う議員であることに、誇りをもっています。

互いに議論しあい、互いの主張を認め合いながら、互いの違いから生まれる新たな価値観を創造し、明日を築いていく。このことこそが、議会において重要であって、議場に国旗・日の丸があっても、なくても、このことに、なんら変わりはありません。

ここに国旗があっても、わたし自身の自由や尊厳はなにひとつ失われません。しかし、国旗を議場に掲げる必然性をみいだせません。国旗・日の丸を議場に掲げることで、この国の未来が明るくなることはないからです。


自由や尊厳は、ときに戦い、ときに涙し、大小さまざまな葛藤のなかで手にするものです。しかし、過去にはそれが著しく困難な時代がありました。いま、なお、著しく困難な状況におかれている方があります。日の丸に反対している人が少なくないということの重みを、わたしたち議員は、おろそかにしてはいけません。

聖なるものの存在が、対局に位置するものを生み、人間の平等を妨げました。人権尊重の町、島本町の議場に国旗を掲げることについては、もっと慎重であってよいはずです。

フランス共和国の国旗には、民衆が自ら手にした自由・平等・博愛の理念があり、アメリカ合衆国の国旗には独立の経緯があり、国旗には歴史的誇りとともに負の遺産が込められています。我々がイギリスと呼んでいる国(立憲君主制国家:グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)は、複数の国から構成され(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)それぞれがそれぞれの国旗をもっています。

イギリスのユニオンフラッグは、それを組み合わせたものです。歴史も伝統も異なる人たちが、手を携えて国を作ることにしたという、ある種の契約を表し、理念を表しています。我々が国旗と定めた日の丸にはどのような理念があるでしょうか。提案者にお尋ねしても、お答えはいただけませんでした。理念がみあたりません。

自らの経験から、国際社会、グローバル社会で必要とされ、尊敬されるために必要なのは、個としての成熟です。そして自分と、自分の隣人を愛する力です。国旗は、なんの役割も果たしてくれません。国旗によって人が育つことはなく、国旗によって愛国心が生まれることも、国旗によって人が守られることもありません。

ひとたび海外に出れば、表紙に菊の紋章のあるパスポートを所持した日本人。わたしは、中国、フィリッピン、韓国、台湾、アジアの人々と共に国際都市香港で暮らし、教科書で学んだものではなく、家族の歴史として語りつがれている戦争に触れました。多くの人が忘れてはいない。けれども許してくれている・・・わたしにとって日の丸は背負うものです。

長野オリンピックで揺れる小旗の日の丸が、この上なく美しいと思え、なぜ日の丸がいけないのかと、わたしは祖国を思い泣きました。今はわかります。あのとき、オリンピックで旗が美しかったのは、選手と選手を応援する人々がみな、すべて輝いていたからです。だからこそ、わたしにはわかります。日の丸がどうしても受け入れられない人の心、許すことができない人の心が。

わたしは国旗・日の丸に反対しませんが、反対する人を排除する社会を好まず、許しません。かつて三島由紀夫という小説家がいたことは、あまりにも有名で、いわゆる右翼とみなされています。けれども実は、愛国心の義務化や徴兵制には反対していたといいます。「自らは愛国者であるが、愛国の義務化には反対である」と。愛国心を含め、すべての価値は内発性、つまり内側から湧き上がってくるものでなければ意味がありません。

それを義務化しようとする風潮に、国を愛する者として私は反対します。心から敬うことなしに、単に形式的に、義務として国旗を掲げるということは、結果的に、その価値をおとしめることにもなり、到底、賛成できません。国旗を日本人が自らの手で「踏み絵」のように扱ってはならない。

国旗を議場に掲げたいとして提案されましたが、「協力」などはできません。島本町議会国旗等掲揚条例の制定に、国を愛する日本人として反対します。島本町議会国旗等掲揚条例の制定に、反対します。


以上


画像は、お正月に賀茂川でみたヌートリア
これを実家の母が飼っている夢をリアルな映像でみました
普段夢をほどんどみませんので、すごく驚きました

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする