ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

(付録) 桜花咲き初むる和歌山城… 西国3社めぐりの旅(4/4)

2024年06月23日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

  (堀に映じる天守閣)

<和歌山城の桜>

 これを書いているのは6月だが、この旅は4月1日、2日。思いがけなくも和歌山城の桜に出会った。

 近年、桜の開花は早い。温暖化の影響だろう。

 今年、桜を見あてにあちこちへ旅の計画を立てた人は、満開になるのは3月下旬と予想したのではないか。

 だから、私のこの小さな旅も、桜に出会おうとは思っていなかった。桜には遅すぎるに違いない。

 ところが、今年の桜はなかなか開花しなかった。テレビの気象予報士までがヤキモキした。

 3月も終わりになってやっと開花し、開花したと思ったら、和歌山城の桜は一気に5~7分まで開いた。

 そして、私も、思いもかけず、少し早いお城の桜を見ることができた。

 (堀の石垣の桜)

      ★ 

<地名「和歌山」のはじまり> 

 以前、一度だけ和歌山城を訪ねたことがある。和歌山市内で開催された会議に出席した帰り、ラッシュの時間にならないうちにと駅へ向かう途中、通りすがりのようにして、城壁の中を歩いてみた。

 今回は、旅の目的である西国三社めぐりも終え、気分ものんびりと午前のお城の中を歩いた。

 言うまでもなく、和歌山城は徳川御三家の一つである紀州徳川家のお城。紀伊国に、伊勢国の一部と大和国の一部が組み込まれて、55万5千石。8代将軍吉宗も出した。

 それ以前のこの国のことについて、私たち県の外の者は、あまり知らない。

 そこで、司馬遼太郎『街道をゆく32 紀ノ川流域』から。

 「中世、いまの和歌山市一帯は、『サイカ(雑賀)』とよばれて、農業生産の高さや、鍛冶などの家内工業の殷賑を誇っていた。

 戦国期になると、雑賀党とよばれる地侍たちが連合(一揆)を組み、根来衆とならんで鉄砲で武装したことは、よく知られている。かれらは、大名の隷下に入ることを好まず、自立していたかったのである」。

 「2、3の大名なら、雑賀・根来の徒と戦ってとても勝ち目がなかったが、織田信長という統一勢力が出てくると、分が悪くなった。

 雑賀衆は、信長と戦い、ついで秀吉と戦って、ついに紀ノ川下流平野をあけわたすことになる。

 それ以後が、和歌山である。秀吉は平定のあと、紀州1国を鎮めるための巨城をつくるべく藤堂高虎(1556~1630)らに普請奉行を命じた。このとき秀吉がこの城山のことを、『若山』とよんだのが、地名和歌山のはじまりだという。和歌山という表記は、文献の上では、秀吉の書簡(天正13年7月2日付)によってはじまるから、秀吉が命名者でないにしても、それに近いといわねばならない」。

 その後、関ヶ原の戦いのあと、徳川の世となり、浅野幸長が紀州37万6千石を領して入城。二の丸、西の丸屋敷が造営され、城と城下町の形が造られた。やがて浅野氏は広島に移封。家康の第10子頼宣が入城して、55万5千石の紀州徳川家となったそうだ。

      ★

<鶴の渓(タニ)>

   ホテルを出発して国道沿いに歩き、城の南西側の追廻門を目指した。

   (追廻門)

 追廻門は石垣にはさまれた門で、櫓はない。城には珍しく朱塗りで、屋根は瓦葺き。

 門をくぐって城郭の中に入り、北へ歩くと、「鶴の渓(タニ)」に出た。  

  (鶴の渓)

 司馬遼太郎が気に入った一郭だ。

 「和歌山城は、石垣がおもしろい。

 とくに城内の、『鶴の渓(タニ)』というあたりの石垣が、青さびていて、いい」。

 「石垣が、古風な野面(ノヅラ)積みであることも結構といわれねばならない。傾斜などもゆるやかで大きく、"渓"とよばれる道を歩いていると、古人に遭うおもいがする」。

 「このあたりの積み方のふるさからみて、藤堂高虎の設計(ナワバリ)のまま穴太(アノウ)衆が石を積んだとしか思えない」。

         ★

<近江の人、藤堂高虎について>

 藤堂高虎は、司馬さん好みの人である。司馬さんは実際的な人、世にあって確かな技術をもち、或いは、知識を応用的に使うことができる人が好きなのだ。

 「和歌山城の普請奉行だった近江人藤堂高虎(1556~1630)は、物の手練れ(テダレ)だった。

 若いころ近江の浅井氏につかえ、また尾張の織田信澄につかえたりしたが、のち秀長に仕えた。1万石の家老でもあった。

 高虎は、土木家として日本土木史上、屈指のひとりといっていい。のち秀吉の大名になり、伊予の宇和島で8万3千石を領した。宇和島城はまったくのかれの作品だった」。

 「そういう高虎の初期の作品が、秀長時代の和歌山城といえるのではないか」。

 「徳川の世になると、功によって伊勢・伊賀32万3千石という大大名になり、官位は従四位下の左少将、徳川一門に準ずるという待遇をうけた」。

      ★

<御橋廊下と天守閣のビュースポット> 

 そのまま北へ歩き、市庁舎側で一旦曲輪の外へ出、今度は東へ歩いてゆくと、目指す景色に出会った。

 前景が堀に架かる御橋廊下。背景は大天守とそれを囲む多門櫓というビュースポットである。※ 冒頭の写真も参照。

  (御橋廊下と天守閣)

 御橋廊下は平成18年に復元された。二の丸(大奥エリア)と西の丸との間の堀に架けられた橋で、橋は屋根と壁に囲われて廊下になり、ここを行く殿様やお付きの者の姿が外から隠される。

 内部を見学することもできるが、今回はパス。だが、写真で見ると、御殿らしい立派な廊下である。

 カメラの絞りが御橋廊下にあるため、天守の方は明るくトンでいるが、大天守の手前には小天守があり、そこから多門櫓が乾櫓へと続いていて、なかなか立派な天守閣である。

      ★

<遊覧船に乗って堀をゆく>

 さらに東へ歩くと堀に架かる一の橋があり、橋を渡れば城の正門である大手門。急に観光客が多くなる。

  (一の橋と大手門)

 橋の下の堀を、客を乗せた和船が行く。

  (遊覧船)

 お城の天守閣や御橋廊下へ入場しない代わりに、あれに乗ろう。 

 天守閣には上がらない。日本の城もヨーロッパの城もよく昇ったが、得た結論は、お城は離れて見てこそ美しい。

 特に日本の城の天守閣は、階段は狭く急で、一段、一段、やっとの思いで上がっても、最上階の空間は殺風景なもの。外の眺望も、江戸時代なら良かったのだろうが、ビルの建つ今の時代、期待するほどの絶景はない。

 大手門から入って二の丸庭園の横をゆくと、船乗り場はすぐに見つかった。

  (船からの眺め)

 水の高さから眺める城郭もいいものだ。

      ★

<和歌山城の復興のこと>

 下船して、坂道をゆっくりと上り、本丸御殿跡に到る。

 天守閣を眺めるには、ここからが最高のビュースポットだ。

 (本丸御殿跡から天守閣)

 (本丸御殿跡から天守閣)

 大天守。その右に小さな小天守。三層の屋根がなかなかかっこいい。

 また、司馬さんの説明を拝借。

 「明治6年1月、政府の手で、城門、本丸、二ノ丸などの建造物がこわされた。ただ、天守閣と小天守は明治初年の破却 (太政官の命令で全国144の城がこわされた) をまぬかれて、その後国宝に指定される幸運をえたものの、昭和20年7月9日、米軍の空襲で喪失した。

 城内に『沿革』と書かれた掲示がある。

 『現在の建物は 昭和20年(1945)戦火焼失に伴い 昭和33年市民の浄財によって 国宝建造であった戦前の姿に復元したものである』

とあるように、外観はことごとく旧に復していて、楠門の白亜の櫓(ヤグラ)と、小天守、大天守が連立しあっている姿は、ことにうつくしい」。

      ★

<地形を生かした西の丸庭園>

 西の丸庭園は、国の名勝に指定されている。

  (西の丸庭園)

 紅葉渓(モミジダニ)庭園とも呼ばれ、紅葉の時季が特に美しいそうだ。

 和歌山城は虎伏山に建造された城郭だから、庭園も、急峻な山容の地形を生かした池泉回遊式。内堀の水を池に見立てて作庭されているのも趣がある。

 (桜の開花)

      ★

<短い旅の終わりに>

 ひとめぐりして、結構、楽しいウォーキングになった。

 岡口門から出た。

 (岡口門)

 この門は白塗りの櫓があり、石垣に挟まれて、城塞の門の厳しさがある。それが周囲の緑に映えて、桜も花を添え、いい雰囲気の城門だ。

 江戸初期の造りで、国の重要文化財になっている。

      ★

 これで、西国三社めぐりの旅は終わった。

 旅に出ると、自ずから歩く。歩くのは健康に良い。お天気も良く、桜の開花にも出会うことができ、良い旅だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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