ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

イツセノミコトと竈山(カマヤマ)神社 … 西国三社めぐりの旅(2)

2024年06月06日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

       (貴志川線の「たま電車」)

 竈山神社は、神武天皇の兄の五瀬(イツセ)命(ミコト)を祀っている。

    和歌山駅から貴志川線に乗って4つめの駅が「竈山(カマヤマ)」で、「日前宮(ニチゼングウ)」からは2つ目である。

 三社のうちでは、駅から一番離れていて、片道10分以上歩く。

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<東征の途中、無念の最期を遂げたイツセノミコト>

 大和盆地の東南部で最初の王となった人の名を、『古事記』『日本書紀』(「記紀」)はカムヤマトイハレビコとする。

 神武天皇という名はずっと後の時代に付けられた漢風の諡(オクリナ)で、国風の諡は『日本書紀』では神日本磐余彦 (カムヤマト イハレビコ)の 天皇 (スメラミコト)。『古事記』でも漢字表記は違うが、やはりカムヤマトイハレビコである。(以下、本文ではイハレビコと短く呼ぶこともある)。

 イハレビコは九州の日向(ヒムカ)に生まれ育ったが、東方に美しい国があると知り、『古事記』では兄の五瀬命(イツセノミコト)と、『日本書紀』では彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)を長兄とする4人兄弟の末の弟として、軍船を仕立て出発した。

    ところで、『日本書紀』によると、イハレビコの3代前は、神々の国である高天原から、九州の日向に、天孫として降臨してきたニニギノミコトである。

 (ニニギノミコトを祀る鹿児島県の霧島神社)

 そのニニギノミコトが天孫降臨してから、曾孫のイハレビコが東征に出発するまでに、179万2470余年が経ったと『日本書紀』は書いている。どこからそういう数字が出て来たのか分からないが、それはつまり、東征より前の話は遥かに遠い遠い昔話であり、「神話」ですよ、ここからが実際の歴史ですよと、『紀』の編纂者は言っているのであろう。

 さて、日向を出発した一行は、瀬戸内海を経て、難波の渡りを通り、生駒山脈の西麓の草香(日下)に上陸する。そして、日下から大和の地へ入るために生駒山を越えようとするが、待ち構えていたナガスネヒコの軍勢に急襲され、激戦の末、劣勢となって、退却せざるを得なくなった。このとき、兄のイツセは肘に流れ矢を受けた。

 一行は生駒越えを断念し、方向転換して紀伊半島を大きく迂回しようと熊野を目指して航行する。途中、紀伊国の男之水門(オノミナト)に入ったとき、兄のイツセの矢傷がひどく悪化した。イツセは激痛に耐え、無念の雄叫びを挙げたと記されている。

 「進みて、紀の国の竈山(カマヤマ)に到りて、五瀬(イツセノ)命、軍に(イクサニ)(軍中で)薨(カムサ)りましぬ。よりて竈山に葬(ハブ)りまつる」(『紀』)。

 「竈山」は、カムヤマトイハレビコの兄のイツセノミコトを葬った所として「記紀」に登場する古い地名なのだ。

 このあと、再び海上に出た一行は、暴風雨に遭い、二人の兄たちも次々に喪った。

 それでもイハレビコは紀伊半島の南端の新宮に上陸し、そこから北上して大和に入り、大和の地を平定して、王となった。

  (熊野速玉大社) 

 イハレビコが上陸したとされる地には、今、熊野速玉(ハヤタマ)大社がある。朱の美しいあでやかな神社である。

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<五瀬命(イツセノミコト)を祀る竈山神社へ>

 伝説の神武天皇の兄である五瀬(イツセノ)命を祀る神社を目指して、竈山駅から南の方角へ、てくてく歩いた。

 参拝を終えたら、どこかで昼食をとらねばならない。だが、駅前にも、竈山神社に向かう途中にも、商店はあるが、カフェとかレストラン、食堂らしき店は見当たらなかった。

 イハレビコも、その日の食をどうしようかと思いながら進んだ日もあったことだろう

 (橋を渡ると石の大鳥居)

 やがてこんもりした森のある角に出た。この森にちがいない。

 (竈山神社の森)

 森の北東の角から入り、正面の鳥居へ回って、参道を行く。

 立派な神門があった。

    (神門)

 神門をくぐると、拝殿があった。

  (拝殿)

 参拝に訪れている人は、子づれの若いお母さんとか、ごくわずかだ。早春らしいのどかな空気のなか、静かに参拝した。

 本殿は拝殿の奥だが、森の樹木の中にすっぽりと囲まれている。

 拝殿からは見えないが、本殿に祀られているのは祭神の彦五瀬の命(ヒコイツセノミコト)。

 左脇殿には神武天皇を含む五瀬命の3人の弟神が祀られ、右脇殿には神武東征に従ったとされる随身たち ─ 物部氏の祖、中臣氏の祖、大伴氏の祖、久米氏の祖、賀茂氏の祖らが祀られているそうだ。

 イツセノミコトは、「記紀」全体の中では脇役であるが、脇役の伝承を踏まえた神社であるというところに興趣があった。

 「延喜式神名帳」(927年)に記載された歴史ある式内社だが、豊臣秀吉の紀州征伐で、他の多くの社寺と同様に没落した。

 江戸時代、紀州藩主によって再建されたが、社領もなく(収入もなく)衰微した。

 明治になって、国家神道のもと、初め村社となり、のち、官幣大社に昇格した。

 本殿の後ろに、五瀬命の陵墓とされる円墳(竈山墓)があった。

 (竈山墓)

 五瀬命の陵墓の所在地は、既に江戸時代から学者たちが探してきたのだが、不明とされていた。だが、宮内庁はここを伝説の五瀬命の陵墓とした。

 私としては、そのことに特に異議はない。少なくとも、ライン川のローレライの岩よりは、遥かに信ぴょう性が高い。

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 歩き疲れ、のども渇き、お腹も空いた。

 竈山駅近くに戻って、一軒のスナックが営業しているのを見つけた。スナックが開くには早すぎると思いつつのぞいてみると、年配のママさんがいて、どうやら昼は近所の人たちが昼食を食べにくる店らしい。席に座ると、バラ寿司があると言う。私は、ラーメンやカレーより、その方がのどを通りやすい。

 手作りのバラ寿司もお汁も美味しく、疲れがいやされた

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<閑話神武東征伝承について>

 『古事記』が成立したのは712年、『日本書紀』の成立は720年、8世紀の初頭である。

 どちらも、神話に続いて、第1代神武天皇から始まる歴代の天皇の歴史が叙述されている。

 現代の歴史学は、第1代神武天皇については、その東征の話も、神武天皇の存在そのものについても、否定的である。このような「東征」があったことを証拠づけるような同時代の文献資料も、神武天皇の存在を証明するような考古学上の発見もない。

 文献学者は、実在の可能性がある最初の天皇は第10代の崇神天皇とし、最近では、11代の垂仁天皇、12代の景行天皇も実在が有力視されるようになっている。

 司馬遼太郎は『街道をゆく32』の中で、 

 「神武天皇が実在したかどうかはべつとして、そういう伝承があって『古事記』『日本書紀』の撰者が採録したのにちがいない」

 「その伝説の神武天皇は "東方に美(ヨ)き地(クニ)がある" ということで、日向を発して東征をおこない、ついに難波(ナニワ)に上陸し、大和に入ろうとして長髄彦(ナガスネヒコ)と戦って敗れる。

 退いてふたたび大阪湾にうかび、紀伊半島南端から北上して大和に入るべく、海路、熊野にむかった。途中、紀ノ川流域の野に入るのである」と書いている。

 司馬さんはここで、「そういう伝承があって『古事記』『日本書紀』の撰者が採録した」としておられる。

 ところが、戦前の著名な記紀研究者であった津田左右吉博士は、『古事記』『日本書紀』(記紀)が編纂された当時、神武東征などの伝承はなかったとして、次のような説を述べ、戦後の古代史研究に大きな影響を与えた。(まとめるにあたり、ウィキペディアの記述を参考にした)。

① 記紀の「神話」の部分は、6世紀の宮廷官人が、上古より天皇が国土を治めていたことを説くために造作したものである。

② 初代天皇である神武天皇は、大和王朝の起源を説明するために創作された人物であって、史実ではない。

③ 神武天皇から9代目の開花天皇までは、7、8世紀の記紀編纂時に創作された人物である。

④ 15代の応神天皇より前の天皇も、また、神功皇后も、創作された非実在の人物である。

 つまり、津田博士は、記紀の「神話」の記述から、第15代の応神天皇の前までの叙述は、朝廷の官人たちが政治的目的のために「造作」したものであって、7、8世紀の記紀編纂当時、応神天皇より前のことは「伝承」も存在しなかった、としたのである。つまり、官人たちが創り出した「創作」、架空の話、フィクション、歴史の捏造であったというのだ。

 そして、戦後の古代史研究は、戦前の皇国史観への反動もあって、この津田博士の学説を出発点としたから、津田学説は戦後も長く通説として扱われてきた。

 しかしながら、戦後の考古学、特に古墳研究の進展や、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文などからも、津田学説に批判的な発見や研究の成果も発表されるようになっている。              

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 そこで、そのような研究者の一人である塚口義信先生の説を紹介したい。(先生の著書はこの項の終わりに記す)。

 塚口先生は、「伝説というものは、はじめに何か核となるもの、祖型となるものがあって、それが、"かくあってほしい"と願う伝承加担者の思い入れや時代の要請に応じて、雪だるま式に形作られてゆく場合が多いのではないか」とした上で、例えば、津田左右吉博士が記紀編纂者の創作であると断じた神功皇后の話についても、「私も、7、8世紀に (つまり「記紀」編纂時に)、かなり手が加えられているのではないかと思います。しかし、7、8世紀に物語のすべてが机上で述作されたのではなく、何かもととなった伝説があり、それが7、8世紀に潤色・変改されて姿を変えた、と理解しています」とされている。

 つまり、① 8世紀初頭に編纂された記紀は、伝説・伝承を踏まえて叙述されたものである。

 ② 伝説・伝承というものは固定されたものではなく、一度形成されたものが、時代を経る中で、その時々の人々(グループ、集団)の願望や都合によって変容されていくものである。記紀編纂時にさえも、時の朝廷にとって都合よく、潤色・変容された可能性はある。

 ③ しかし、記紀の内容は、朝廷の官人によって創作・虚構されたものではない。また、創作ではなく、伝説・伝承されたものである以上、そこに歴史的な事実の反映もあることは否定できない。

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 それでは、「神武東征伝承」について、塚口先生はどのように説明されているだろうか??

 塚口先生は、「私自身は、建国神話は、ヤマト王権が(大和盆地の東南部に)誕生した遅くとも3世紀には存在したと思っている」とする。

 しかし、建国神話の主人公が、九州の日向を出発して、生駒山西麓の日下に上陸するというシナリオになったのは、5世紀の前半であろうとされる。

 3世紀に作られていただろう建国神話の中身が、5世紀の前半に変容したというのである。

 それでは5世紀前半とはどのような時代であったのか??

 それは「ヤマト王権」が河内に進出し、河内に大王家を営んだ応神天皇やその子の仁徳天皇の時代であった。この時代に、超巨大な前方後円墳が築かれたことはよく知られている。

 この時代、応神天皇にも、その子の仁徳天皇にも、九州の日向の豪族がお妃を入れ、皇子や皇女も生まれて、河内の日下の地に「日下の宮」が営まれた。

 また同じ頃、日向地方、今の宮崎県の西都原古墳群が巨大化し、九州で最大規模の前方後円墳である女狭穂塚(メサホツカ)古墳が築かれている。

 つまり、この時代は、(葛城氏系とともに)、「日向系の一族が隆盛を極め、大王家と深い関係をもった」時代であった。

 この時代に、建国神話の主人公(神武天皇)は、もともと九州の日向に生まれた天孫であって、その昔、日向の若者たちを率いて東征し、「日下の宮」のある地に上陸して、ナガスネヒコと戦ったのだ、というストーリーが新たに加えられ、それが8世紀に編纂された記紀の「神武東征」の話になったとするのである。

 それではなぜ、5世紀前半に日向系の一族が隆盛を極めるようになったのか。それは、4世紀末にあったヤマト王権内の内乱を契機にしている。

 記紀の神功皇后伝説では、── 北九州に(さらに朝鮮半島に)出征していた神功皇后が、北九州の地で誉田別 (ホムダワケ のちの応神天皇)を出産した。このことを知った大和の誉田別(ホムダワケ)の異母兄である忍熊王(オシクマノキミ)らは、皇位を奪われることをおそれて軍をおこした。これに対して神功皇后の側も、日向の諸族の支援を得て、九州から大和へ向けて進軍し、葛城氏らの応援も得て、忍熊王(オシクマノキミ)の軍勢を打ち破って滅ぼした、── としている。

 神功皇后伝説をどこまで歴史的事実と認めるかは別にして、塚口先生は、ヤマト王権内部でこうした内乱があったことは事実であろうと考えておられる。この内乱で最も功績を挙げたのは、大和の葛城氏と日向系の豪族であった。

 成長した誉田別は大王となり、大和から河内に出て、大きな力を持つようになった。

 そのとき、日向系豪族は、姫たちを輿入れさせ、隆盛を極めた。

 こうして5世紀に、ヤマト王権の建国の大王は、実はもともと日向の地に降臨されていた天孫の子孫で、日向の軍勢を率いて東征し、大和盆地において大王になられたのだ、という風に、建国神話は変容したと、塚口先生は説明される。

 私は、塚口先生の説にかなり納得している。

 なお、今、蛇行剣を出土したことで話題になっている富雄丸山古墳。86mの大きな古墳で、出土品も一級品なのに、墳型が前方後円墳ではなく、なぜか円墳である。この古墳について、塚口先生は早くから4世紀末の内乱で滅亡した忍熊王(オシクマノキミ)の墓ではないかと言っておられる。

※ 塚口義信先生の著書

 〇 『三輪山と卑弥呼・神武天皇』(学生社) ── この中の「 "神武伝説と日向" の再検討」

 〇 『ヤマト王権の謎をとく』(学生社)

 〇 『邪馬台国と初期ヤマト政権の謎を探る』(原書房)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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