ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

湖北 = 賤ケ岳と菅浦 … 琵琶湖周遊の旅(4)

2021年01月09日 | 国内旅行…琵琶湖周遊の旅

     (賤ガ岳から伊吹山方面)

 みなさま、明けましておめでとうございます

 「不安→怒り→攻撃→不安」という脳のサイクルに入らないよう、いつまで続くかわかりませんが、笑顔で日々を乗り越えましょう

 本年も、どうかよろしくお願いいたします

   ★   ★   ★

<湖北を走る>

白洲正子『かくれ里』から

 「湖北とはいうまでもなく、琵琶湖の北を指すが、さてどこから先を『湖北』と呼ぶのか、はっきりしたことを私は知らない。

 が、西は比良山をはずれて安曇川を渡る頃から、東は長浜をすぎて竹生島が見えかくれするあたりから、琵琶湖の景色はたしかに変わって来る。

 空気が澄んで透明になり、伊吹山は南側から見るのとまったく違う山容を現し、湖上には魚をとるエリがあちらこちらに見えはじめる。刈りとられた田圃に榛の木の稲架(ハキ)が、点々と立っているのも北国めいた風景である」。

   長浜の街を出て、湖岸沿いの「さざなみ街道」を走る。

 お天気が良く、左手には静かに湖が広がり、水鳥が群れている。

 姉川の河口を渡る。ここを少し上流に行けば、すぐに鉄砲づくりで有名な国友。その先が姉川の古戦場。その北に浅井長政の小谷城趾。

 そういうものが指呼の間にあるが、今日は寄らない。

 まもなく尾上温泉の一軒宿。水鳥の観察小屋もある。

 やがて自動車道は湖岸からはなれ、高月町を経て賤ケ岳方面へ。昨日、宿の主人の話に出た十一面観音のある渡岸寺の木之本町もこのあたりだ。

白洲正子『西国巡礼』から

 「渡岸寺を出ると、東に小谷の城跡がそびえ、しばらく行くと、賤ケ岳も見えてくる。悲惨な歴史を秘めた地方だが、自然はそれを知らぬげに、いよいよ美しくなって行く」。

       ★

<湖北随一の眺め>

 この辺りの詳細な道路地図がなく、「賤ケ岳古戦場」の看板はあったがわかりにくく、少し道に迷う。途中、野をゆく人に道を尋ねて、何とかリフト乗り場に着いた。

 リフトは結構長く、戦国時代、ここを攻め上るにしろ、陣を敷くために登るとしても、大変である。

 リフトは9合目までで、その先は歩いて登った。だが、展望が開けて気持ちが良い。

 眼下に、琵琶湖北岸の深い入江。

  (賤ケ岳から望む琵琶湖北岸)

 おーっ これは、既視感がある。大河ドラマ「江 ─ 姫たちの戦国」のタイトルで使われた景色だ。

 琵琶湖の周囲は地形的に比較的のっぺりしているが、湖北の最深部は、奥深く切れ込む入江があり、また、岬が長く伸びて、静寂な湖面に山々の影を映している。

 さらに登ると、頂上近くの木蔭に「賤ケ岳合戦戦没者霊地」の石碑がある。

 そして、戦い疲れた武者の像。

 頂上(標高421m)付近からは、北に余呉湖を見下ろすことができた。

   (余呉湖)

 ボランティアガイドの方がいて、少し説明してもらった。

 余呉湖の北側の低い山並みのあたりが秀吉軍の最前線。そこから手前の山々には、余呉湖を囲むように秀吉軍が配置していた。

 柴田勝家勢は余呉湖の向こうの高い山並み一帯に陣を張った。

 柴田側の佐久間盛政軍が奇襲をかけようと遥々と秀吉軍の陣営深く侵入し、余呉湖の東側、この賤ケ岳から尾根続きの大岩山砦を攻撃した。奇襲は成功したかに見えたが、秀吉側はその動きを捕捉していた。佐久間盛政軍は逆に包囲攻撃を受け、敗走する。佐久間軍の敗走とともに柴田勢は一挙に総崩れになった。

   余呉湖周辺一帯が戦場となり、多くの戦死者があったという。

白洲正子『かくれ里』から

  「(賤ケ岳は)、古戦場が有名になりすぎて本来の使命が忘れられているが、元は湖北の、特に伊香の小江の鎮めの神であった。真下に紺碧の湖を見下ろし、南は琵琶湖のはるかかなたに、伊吹山まで望む景色は湖北随一の眺めである」。

 四方八方見晴らしがよく、観光客も少なく、しんと静まり返って美しい。古戦場という歴史の跡でもあるが、琵琶湖周遊の旅のハイライトはこの景色かもしれない。白洲正子が「湖北随一の眺めである」と書いているが、来てみてよくわかった。

 今日の行程は始まったばかりで、今夜の宿はこの北岸から琵琶湖の西岸をぐるっと走って、南東岸まで行かねばならない。先は遥かに遠いが、ここでしばらくのんびりした。    

       ★

<「かくれ里」>

 奥琵琶湖パークウェイは一方通行の山の中の道で、距離のわりには時間がかかった。

 大浦の交差点で分岐すると、人里からはなれていき、神秘的な湖畔の道となる。

 以下、白洲正子『かくれ里』からである。

 「この辺に来ると、人影もまれで、湖北の中の湖北といった感じがする。特に大浦の入江は、ひきこまれそうに静かである」。

  (湖北の湖面)

  「菅浦は、その大浦と塩津の中間にある港で、岬の突端を葛籠尾(ツヅラオ)崎という。…… 街道から遠くはずれる為、湖北の中でもまったく人の行かない秘境である」。

 「つい最近まで、外部の人とも付合わない極端に排他的な集落でもあったという」。

 「それには理由があった。菅浦の住人は、淳仁天皇に仕えた人々の子孫と信じており、その誇りと警戒心が、他人を寄せ付けなかったのである」。 

 …… 話は、遠いいにしえに遡る。

 764年、藤原の仲麻呂の乱があった。

 聖武天皇と皇后の藤原光明子の間に男子なく、二人の間に生まれた第一皇女・阿倍の皇女が帝を継いだ。孝謙女帝である。  

 聖武天皇亡き後。光明皇太后の下で皇太后の甥の藤原仲麻呂が頭角を現し、見る見るうちに出世し、人臣を極めるに到った。孝謙女帝は退位し、仲麻呂邸の居候のようであった大炊(オオイ)王(オオキミ)が帝位につく。淳仁天皇である。

 ところが、光明皇太后が亡くなると、孝謙上皇と太政大臣になっていた藤原仲麻呂の仲が決裂する。仲麻呂が実際にクーデターを企画・決行して、目障りな孝謙上皇を排除しようとしたのか、孝謙上皇側のフレームアップか、わからない。孝謙は先手を取り、「仲麻呂反乱」の宣言をして、直ちに三関を固めた。

    仲麻呂は近江国から越前へ脱れて再起を図ろうとするが、朝廷軍を率いた吉備真備に悉く先手を打たれた。湖南の瀬田橋を焼かれ、船で湖上を北上するが、嵐にあって湖北の入江に流れつく。そこからなお愛発(アラチ)の関を越えて越前へ向かおうとするが、朝廷の軍勢に待伏せされた。関を越えることかなわず、再び湖西の高島へ引返して決戦となったが、一族悉く殺された。

 乱平定後、仲麻呂が担いでいた淳仁天皇も捕らえられ、親王に降格されて淡路島の高島に幽居された(淡路廃帝)。

 一方、孝謙上皇は重祚(チョウソ = 退位した天皇が再び天皇の位につくこと)し、称徳天皇となる。ただ、女帝は一代限り。存続中に皇族の中から男子を選び、帝に立てる必要があった。だが、女帝は僧道鏡を帝位に立てようとした。これは和気清麻呂によって阻止され、女帝死後、臣下一致して道鏡を退けて、天智天皇の子孫である光仁天皇を帝位につけた。桓武天皇の父帝である。

 仲麻呂の乱の翌年、淳仁は淡路島からの脱出を試みるが捕らえられ、翌日、不明の死を遂げた。

 淳仁の父は舎人親王。天武天皇の皇子で、元正女帝や聖武天皇を補佐し、また、『日本書紀』編纂の総括者として歴史に名を残す。死後、太政大臣に叙せられている。 

 ところが、……  「菅浦の言い伝えでは、その淡路は、淡海のあやまりで、高島も、湖北の高島であるという。菅浦には、須賀神社という社があるが、…… 祭神は淳仁天皇で、社が建っている所がその御陵ということになっている」。

 (須賀神社鳥居)

  (須賀神社祭神の碑)

 小さな集落に4つの門があって、侵入者に備えたという。今も、2つの門が残る。

 古代から続くかくれ里であった。

 この里に、「つづらお」という一軒宿があった。琵琶湖周遊でいちばん泊まりたかった宿である。だが、老朽化のため、つい最近、宿は閉じられた。残念。心残りである。

 葛籠尾(ツヅラオ)展望台からの眺めはすばらしかった。

 近江国は奥が深いと、改めて感じた。

    (つづらお展望台から)

 

 

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