ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

ケルンまで … ネーデルランド (低地地方) への旅 (1)

2017年10月22日 | 西欧旅行…ベネルクス3国の旅

            ( キンデルダイクの風車群 )

 ベルネクスではない。ベネルクス。ベネルクス(Benelux)とは、ベルギー王国、オランダ王国、ルクセンブルグ大公国の3カ国の頭文字をとったものだそうだ

   旅をすると勉強し、無知が少し知になる。もっとも、年のせいですぐに忘れてしまうが。

 Beneluxの「ne」は、オランダの正式名称「ネーデルランド王国」による。日本語の「オランダ」という国の呼称は、その一州であるホーランド州からきている。ホーランドを国名と誤解してしまったのだ。

 ただし、ネーデルランドは、オランダ1国ではなく、このあたり一帯を指す古い言葉である。「低い地」という意味だ。ライン川などが運んだ土砂の堆積によってできた海面すれすれの湿地帯である。

 その中で一番大きい国のオランダが九州ぐらいで、人口は1700万人。ベルギーの面積は近畿ぐらいで、人口1100万人。ルクセンブルグはわずか54万人だから、日本の県庁所在地ぐらいの国だ。

 いずれも、近世に至るまで独立国であったことはなかった。

 近世に入ると、アントワープ(ベルギー)、続いてアムステルダム(オランダ)が大発展した。

 ネーデルランドは長年、他国の王や大貴族によって支配されてきたから、人々は商売したり、海に出たりする。すると、おのずから見聞も広がり、自分の頭でものを考えるようにもなり、「個人」が成長する。個人が確立していくと、教会や神職の権威を介さず、直接的に神と向き合うことを教えるプロテスタントに改宗するようになる。また、利のために個人と個人が協同してシステマチックに物事を進めるようになり、ついに会社組織を発明した。それは、のち、坂本龍馬のお手本となる。

 ところが、16世紀のネーデルランドを支配していたのは、カソリックの守護者を任じる強国スペインだった。このスペインの正規軍を相手に、市民たちは80年に及ぶ血みどろの独立戦争を戦い、その結果、オランダは独立を勝ち取るのである。

 ベルギーは、フランスに近く、カソリックの信者が多かったため、スペインの支配から逃げ遅れた。そのため、先に栄えていたアントワープから、小都市アムステルダムへ資本が移動し、アムステルダムは大発展をした。

 秀吉や家康によってポルトガルやスペインがしめ出されたあと、遥々と鎖国の日本にやってきて、ヨーロッパの文明・文化を伝え続けてくれたのは、プロテスタント国のオランダであった。もちろん、彼らがやって来たのは親善友好のためではなく、利を求め交易のためにやって来たのであり、これを受け入れた幕府も、長崎を自分の直轄地として、利を求めた。

 時代は移り、独立が遅れたベルギーも、今や首都ブリュッセルはEUの中心となっている。今、ベネルクス3国は、世界で最も豊かで自由な市民国家と言っても過言ではない

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 話を遥かに遡らせる。

 ユリウス・カエサルが軍団を率い、アルプスを越えてやって来た紀元前50年ごろのネーデルランドは、僻地の僻地であった。当時、アルプスより北は、ベルギー、オランダは言うまでもなく、フランスもスイスも、「蛮族(バーバリアン)」の諸部族の蟠踞する地だった

 それよりさらに昔、ローマが今のローマ市のあたりに興り、だんだんと成長して、やがてイタリア半島全体に支配を広げたころのことだ。

 突然、アルプス山脈を越えて、山の向こうの蛮族がなだれ込んできたのである。彼らはあっという間にイタリア半島を南下し、ローマ市の城壁も乗り越え、これまで無敵を誇ったローマ人たちも、ローマの市街地にある丘の上に立てこもって、死にものぐるいの防戦をせざるをえなかった。蛮族は、殺しまくり、奪いまくって、やがてアルプスの向こうへ去っていった。かろうじて生き残ったローマ人たちは、もう一度、一から国を立て直さなければならなかったのである。

 アルプスは、自然の要害ではない …… アルプスの向こう側に対する恐怖は、ローマ人のなかに、遺伝子となって何世代も残った。

 ユリウス・カエサルのガリア(現在のフランス)遠征は、地中海の覇権をにぎるまでに成長したローマが自らの安全保障のため、いつか、誰かが、やらねばならない遠征だった。

 アルプスを越えたカエサルは、フランス中部やスイスの諸部族を平定した後、フランス北東部からネーデルランドの諸部族の制圧にかかった。そこでは、冬営している1軍団が全滅させられるというような手痛い反撃にもあったが、3~4年かかって、制圧に成功した。

 こうしてガリヤ全土を平定したカエサルは、ライン川を、以後のローマの防衛線と定めた。

 「国境」ではない。「防衛線」である。国境は、国と国との間に定められる。

 ライン川の向こうの深くて暗い森に棲むゲルマン民族は、狩猟民族だった。肉を主食とする。森に棲み、ローマ軍が暗い森に踏み込めば、たちまち待ち伏せされる。道路をつくり橋を架け、十分な宿営地を切り開きつつ、兵站を確保しながら進むローマの戦い方では、彼らを制圧するのにどれほどの歳月と犠牲を要するだろう。

 だが、ライン川よりこちら側に棲むガリア人たちは、ローマ人と同じように農耕をする。ローマ人の主食は小麦である。農耕する人々は、同化できる。

 カエサルは、軍事力でガリアを一方的に滅亡させようとしたのではない。

 ゲルマンに対しては、ライン川に沿って軍団基地を配置した。一方、ライン川のこちらに棲むガリアの部族長にはローマ市民の名誉を与え、さらには、有力な部族長をローマの元老院議員として迎えた。多くのガリアの少年たちをローマに留学させ、元老院議員の家にホームステイさせた。街道を造り、橋を架け、全ての道はローマに通じるという政策をおし進めた。カエサルの思想を端的に表している事業が、ローマ市を守る城壁を取っ払ってしまったということだ。都に城壁は要らない。パクス・ロマーナ(ローマによる平和)をつくり出すことが、真の安全保障である。その象徴が、城壁のない都・ローマだった。

 (蛮族を元老院議員にするなど)、自分たちの既得権益が侵されたと感じたプライドばかり高い若い元老院議員たちの剣によって、カエサルは元老院の中で殺害された。

 しかし、その後、彼の意思を受け継いだ人々によって、パクス・ロマーナの時代がつくりだされた。2000年のヨーロッパの歴史は、戦争ばかりの歴史である。そのなかで、最も平和で、人々が幸せだった時代は、この時代である。カエサルによって、ヨーロッパは創られた、と言われる。

 ともかく、ライン川の向こうであるオランダの北部を除いて、ネーデルランドは ローマ世界に組み入れられ、ローマの属州となって、文明化されていくのである。

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旅の初めに >

 2017年9月26日に出発し、10月3日に帰国する8日間のツアーに参加した。ドイツのライン川クルーズと、ルクセンブルグ、ベルギー、オランダをめぐる旅である。

 今回のコースは、自分で計画して、列車で見て回ることのできる地域だった。ライン川クルーズも研究済みだった。にもかかわらず、出来合いのツアーに参加した。

 というのも、昨年の春、ポルトガルへ行き、ユーラシア大陸の西の果ての大西洋を望むロカ岬、さらにエンリケ航海王子の足跡を追って、サグレス岬からサン・ヴィセンテ岬へと旅をした。

 旅を終えて、帰ってから、今までになかった達成感のようなものが気持ちの中に生じてきた。

 旅に出るのも、エネルギーがいる。そのエネルギーは、例えば知りたいという、未知への渇きから生まれる。足りてしまったら、旅へのエネルギーは生まれてこない。もともと出不精な人間だから、蟄居隠棲することは少しも苦にならない。旅に出るには、エネルギーがいる。

 ポルトガル旅行から1年もたって、やっと北海道の5大岬をめぐるという旅行社企画のツアーに参加した。

 そして、今回も、自らに「横着」を許して、8日間のベネルクス3国をめぐるツアーに参加した。 

 この次には、もっと本質的に知りたい旅に出るために、その跳躍台として。

 老い込むには、まだ少し早いから。

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旅のコース

第1日目] KLMオランダ航空で関空からアムステルダムへ。

 アムステルダムからは、バスで国境を越えてドイツのケルンへ。 

第2日目] ケルン大聖堂見学 / ライン川クルーズ

 バスでルクセンブルグへ。

第3日目] ルクセンブルグ観光。

 バスでベルギーのブルージュへ。

第4日目] ブルージュ観光 / ゲントとブリュッセル観光。

第5日目] アントワープでルーベンスの絵を鑑賞。

 バスでオランダに入り、キンデルダイクの風車群見学。

 ハーグで、フェルメールの絵を鑑賞。

第6日目] ナールデン散策 / アムステルダム観光 / レンブランドの絵を鑑賞。

第7日目] KLMオランダ航空でアムステルダム出発

第8日目] 朝、関空着

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 ルーベンス、フェルメール、レンブランドの絵を観るところが、このツアーの一つの特色かもしれない。

 司馬遼太郎の『街道をゆく オランダ紀行』にも、ルーベンス、レンブランド、(そしてゴッホ)のことがかなり詳しく語られている。また、『オランダ紀行』には、ナールデンのこと (五稜郭のスケールを大きくしたような星形の町)、キンデルダイクのこと (この近くの造船所で咸臨丸が造られた) も出てくる。    

   もし司馬遼太郎の『オランダ紀行』をも参考にしてこのツアーが組み立てられているのなら、旅行会社のツアーとしては、なかなかのものである。

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< 第1日目 : アムステルダムからケルンへ >

 いつも乗り継ぐアムステルダムのスキポール空港で、今回は乗り継がず、空港を出て大型観光バスに乗りこんだ。

 このバスで、ドイツ、ルクセンブルグ、ベルギー、オランダと回り、再びアムステルダムへ帰ってくる。

 バスの中は、1人で2席分のゆとりがあった。

 今日は、ドイツのケルンまで270キロ。飛行機は乗り継がないが、ホテルに着くのは、ヨーロッパ時間で午後8時の予定。朝、関空を立って、ホテルに入るのが日本時間なら翌日の午前3時だから、結構、しんどい初日だ。

 いつもは飛行機の上から見る、オランダの美しく区画された畑や牧場は、観光バスの車窓から見ても豊かで美しい。しかし、ドイツへ走る高速道路はしばしば渋滞し、日が暮れていき、どんよりした空模様は、時に雨となった。

 すっかり暗くなって、ケルン郊外のホテルに到着する。 

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 高速道路の脇の安ホテルは、窓が防音になっていない。そのため、窓の下のマクドナルド店の辺りで深夜まで騒ぐ声、それに一晩中車の走る音がして、寝苦しかった。

 自分で企画した旅なら、たとえ安宿でも、こういうホテルに泊まることはない。しかし、これもまた、旅である。明日のケルン大聖堂、それにライン川クルーズがたのしみだ。

 

 


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