ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

ノルマン王宮礼拝堂のモザイク画 … 文明の十字路・シチリア島への旅5

2014年07月31日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

       ( パレルモの王宮 )

 チェファルーからバスで戻り、昼食後、パレルモの街を徒歩で観光した。

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紅山雪夫『シチリア・南イタリアとマルタ』(トラベルジャーナル)から

 「パレルモに新しい時代をもたらしたのはアラブ人で、831年にビザンチン軍を撃破してこの町を占領し、シチリア支配の本拠とした。

 それまで、ギリシャ時代、ローマ時代、ビザンチン時代を通じて、シチリアの中心をなす都市はずっと東海岸のシラクーサだったのが、このとき初めて西北海岸のパレルモに移った」。

 アラブ人は、ギリシャ正教からの改宗を要求せず、イベリア半島の場合と同じように、各自の信仰は各自の勝手にまかせた。

 ビザンチン時代のシチリアの農業は荒廃していた。遠く離れて税だけ取り立てる大土地所有が、シチリアの農業を疲弊させていた。力のおとろえたビザンチン帝国は、税は取り立てるが、北アフリカからやってくる海賊に対しては全く無力だった。

  「アラブ人は乾燥地帯で鍛え上げた灌漑技術を持ち込み、パレルモの周辺を果物や野菜を豊富に産する沃野に仕立て上げた。

 この沃野はまわりの山地から見下ろすと帆立貝のような形をしているので、コンカ・ドーロ(黄金の帆立貝)と呼ばれ、今もなお、オレンジやレモンなどの果樹園がどこまでも続いている。これらの柑橘類もまたアラブ人がもたらしたものだ」 。(同上)

 

   ( 屋台のお土産屋さん )

   「オレンジ・ジュース1.5ユーロ」と書いてある。オレンジ1個をそのまま使って、目の前で生ジュースを作ってくれる。シチリアに限らず、イタリアのオレンジの身は赤い。赤いオレンジジュースだ。のどの渇きをいやして、爽やかで甘い。

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 アラブ人が持ち込んだのは、農業の刷新ばかりではない。

  「アラブ時代にパレルモは繁栄を極め、壮麗なモスク、学校 (イスラム法のほか、医学、薬学、化学、数学、天文学などを教えた)、隊商宿、市場、公衆浴場、水を引き込んだ美しい庭園をもつアラブ風邸宅などが多数造られ、その見事さは訪れる人々を感嘆させた」。(同上)

 同時期のスペインのコルドバやセビーリャと同じような状況が現出していたのである。

 このようなアラブ人の支配が、ノルマン人の支配に移ったのは1072年である。

 南イタリアそしてシチリア島へ。フランスのノルマンディー地方からやってきたヴァイキングの末裔たちは、十字軍やスペインのレコンキスタのように異教徒と戦う聖戦のために来たのではない。彼らは貴族の家の次男坊、三男坊たちで、いわば一攫千金を求め、新天地を求めてやってきたのだ。

 その中で、兄とともに頭角を現したのがオートヴィル家のルッジェーロ(Ⅰ世)である。

 事の起こりは、シチリアにおけるアラブ人の頭領同士の争いであった。一方の側から応援を頼まれたルッジェーロ率いるノルマン人たちは、いわば傭兵として戦いに参加したのだ。ところが、その頭領が殺されてしまった。そこで、ルッジェーロは、頭領の部下や、協力を申し出るアラブ人の戦士たちをみな味方に引き入れて (なにしろノルマン人の数は少ないのだ!)、進撃し、ついには首都パレルモを陥落させた。ただし、最後はアラブ市民の既得権を尊重するという条件付きの無血開城だった。

 こうして、ルッジェーロⅠ世・シチリア伯が誕生した。一方、兄は南イタリアを征服し,公爵となった。

 ノルマン人自身はローマカソリック教徒であったが、このような経緯からも、アラブ系イスラム教徒に対して、或いはそれ以前のギリシャ正教徒たちに対しても、その生活や信仰に干渉することをしなかった。

 早い話、ノルマンの軍隊には数千人のイスラム教徒の兵士がいて、そのためローマ教皇の怒りを買っていたらしい。

 伯父と父から南イタリアとシチリアを継承したルッジェーロⅡ世のころには、3つの文化が融合し、ノルマン・シチリア王国は豊かな発展を遂げたのである。

 だが、異文化に対して寛容であったオートヴィル家、続く皇帝フリードリヒⅡ世のホーエンシュタウフェン家が断絶し、その遠縁にあたるスペインのアラゴン家が入ってくると、事態は一変する。スペインにおけるイスラム教徒との長い戦いを経てきた彼らは、いわばキリスト教原理主義者で、イスラム教や異教的なものに対して異常な敵愾心を持った。そしてローマ教皇のバックアップのもとに、イスラム時代の学校も、アラブ風の邸宅も、大浴場も、ことごとく破壊してしまったのである。文化破壊である。

 今、シチリアにイスラム風の建造物は何も残っていない。ただ、ノルマン時代の建造物にその影響を見るのみである。

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 パレルモの旧市街のはずれにあるノルマン王宮は、今は州議会堂として使われているが、その2階にある王宮礼拝堂(パラティーナ礼拝堂)は、いつでも観光できる。

 ルッジェーロⅡ世が1132年に着工し、ほぼ創建時の姿のままで、パレルモ観光の花となっている。

 

   ( 内陣正面 )

   中に入ると、いきなり金色に包まれたイエス像が目にとびこんでくる。内陣正面の「聖ペテロと聖パウロを従えた玉座のキリスト」像である。

 その天井はビザンチン風にドームになっていて、「天使に囲まれた全知全能の神キリスト」、その下にはダビデやソロモン王など旧約聖書に出てくるイエスの祖先や洗礼者ヨハネの像が、荘厳無比な金色で描かれている。

    ( 内陣の右手 )

 さらに、チェファルーの大聖堂と違って、この礼拝堂は、柱頭より上、周囲の壁面のすべてに聖書の各場面を描いたモザイク画が施してある。

 また、大理石の床も、踏まれてもよい色石で装飾的な模様が描かれていた。

 

 ( アブラハムがわが子イサクを捧げる )

 フランス・ゴシック時代の天を衝く大伽藍や光のステンドグラスの輝きと比べると、ロマネスク時代の聖堂は小さく、その絵も鄙びて、好ましい。

 ノルマン王宮の3階のルッジェーロ王の間には、狩りの場面やギリシャ神話の場面など、宗教画でない華麗なモザイク画があるということだが、素通りしてしまったのは残念である。

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     ( パレルモのカテドラル )

  ノルマン時代に建てられた大聖堂(カテドラル)は、その後何度も改築され、内部もすっかり新しくなって、上の写真のあたりが一番建設当時の名残を留めているとか。

 内部にはノルマン王朝の霊廟があり、皇帝フリードリッヒⅡ世が少年のころ、自分が死んだらあの棺に入る、と言っていた古代ローマ時代の石棺もあるというが、素通りしてしまった。

   ( パレルモの市場 )

 夕食を食べに入ったレストランのすぐそばにはヨットハーバー。

 現代の大型船が停泊する港はもっと北に広がっているが、古代、中世のころ、ガレー船が寄港したのは、この一角である。   

   ( ヨットハーバー )

( 続 く )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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