( タホ川と、アルカサルと、大聖堂 )
紅山雪夫『魅惑のスペイン』(新潮文庫)から。
「『 もしスペインでたった1日しか時間がなかったら、ためらわずにトレドを見よ』 とよく言われる。まさにそのとおりで、トレドはスペインの歴史と文化が一点に凝縮して出来た町だ。
ツアーの場合は、まず初めにタホ川のかなたの見晴台へ行き、全市を見渡す。足もとには大きく半円を描いて流れるタホ川の深い渓谷があり、その向こうの高台いっぱいに盛り上がるようにして、トレドの旧市街が広がっている。右手のいちばん高い所には巨大なアルカサルがそびえ、左手には大聖堂をはじめとして、いくつもの教会の塔やドームが天を指さすように並んでいる。これほどよくまとまっていて、しかも強烈に個性的な印象を与える都市の眺めは、世界中のどこにもなさそうだ」。
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< 城塞都市トレドを一望する 「パラドール・トレド」へ >
5月19日(日) ~ 20日(月)。
グラナダ、コルドバ、セビーリャと巡ったアンダルシア地方の旅を終えて、セビーリャ8時45分発の新幹線で、マドリッドへ向かった。
スペインでは、2004年にマドリッド・アトーチャー駅周辺で、列車に仕掛けられた爆弾が次々に爆破するというテロ事件があり、191人が死亡、2千人が負傷した。 アルカイダ系のテロと言われる。
それ以後、特急に乗る場合、セキュリティ・チェック (荷物検査) がある。また、プラットホームなどでの写真撮影も禁止だ。文明の衝突は21世紀に持ち越されて、世界の現実は厳しい。
セビーリャからマドリッドまで2時間半の列車の旅。
( オリーブ畑が続く車窓風景 )
マドリッド・アトーチャ駅で1時間の乗継ぎ時間を経て、今日、2度目のセキュリティー・チェックを受け、特急で30分 …… トレドに到着した。タクシーで 「パラドール・トレド」へ。
パラドールは、昔のお城や修道院などをホテルに改修した、半官半民の、比較的高級なホテル・チェーン。
昨年12月のスペイン旅行でも、巡礼の町サンチャゴ・デ・コンポステーラでパラドールに泊まった。広場に面して大聖堂の横にあり、これ以上ない好立地だった。しかも、若者と60歳以上には割引もある。
ホテル選びも旅の楽しみの一つである。何よりも大事にするのは、立地である。 値段や快適さもあるが、できるだけ 旧市街の真ん中のホテルを選ぶ。観光バスで名所から名所へと連れて行ってもらうツアー旅行ではないから、立地は大切だ。朝、まだ人気のない歴史地区を散歩したり、昼、見学に疲れたら部屋に帰って一休みしたり、さらに、自分の部屋の窓から名所・旧跡のライトアップを眺めることが出来たりしたら、これはもう私的には最高級のホテルである。
「パラドール・トレド」 の"売り"も、その立地だ。ただし、旧市街の中ではない。タホ川の渓谷をはさんで、トレドの街を一望できる高台にある。
トレドでは、街の散策はさっと済ませ、このホテルの部屋の窓から、時間とともに変化する城塞都市トレドを眺めたい。これがこの旅の目的の一つでもある。
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< トレドの歴史 >
イベリア半島を、東部から、西の大西洋へと流れる大河が、3本ある。
北からドゥエロ川、古都トレドを巡るタホ川、そして、コルドバやセビーリャの町を流れるグアダルキビル川である。
ドゥエロ川は、ポルトガルではドウロ川となり、ポルトガル第2の都市・ポルトで大西洋に注ぐ。また、タホ川は、ポルトガルではテージョ川と呼ばれ、首都リスボンが河口となる。
リスボンの遥か上流にあるトレドは、イベリア半島のほぼ真ん中に位置し、町の東、南、西の三方をタホ川の渓谷に囲まれた、自然の要害にある。ローマ以前から砦があったらしい。BC190年にローマ軍が占拠し、現在アルカサルがある一画に軍営と役所を置いた。
ローマ滅亡後、569年に西ゴード王国の首都となって、大きく発展した。現在の旧市街を囲む城壁の大部分は、西ゴード時代に築かれた。
711年、イスラムの軍勢がイベリア半島に侵入する。これを迎え撃った西ゴード王国は、数の上では数倍の軍勢を擁したが、際限のない内部抗争、挙句にイスラム勢力に内通する者も現れ、いざ戦いが始まると総崩れとなる。そして、態勢を立て直すいとまもなく、ドゥエロ川のさらに北の山岳地帯まで逃げ込み、やっとイスラムの進撃を食い止めることができた。彼らはそこにレオン王国をつくる。
繁栄を誇った後ウマイヤ王朝は、1031年に度重なる内紛に倒れ、20余りの国に分裂して、キリスト教勢力のレコンキスタ (領土回復運動) によって、次々打ち破られていく。
すでに10世紀にドゥエロ川まで進んでいたキリスト教勢力は、11世紀から12世紀にかけてタホ川の線まで進んだ。西ゴード王国の首都であったトレドが奪還されたのは、イスラム支配下に置かれてから370年後のAD1085年である。
13世紀にキリスト教勢力は、グアダルキビル川の彼方まで領土を拡大する。1234年に、イスラム勢の首都であったコルドバが、再征服された。
そして、1492年、イスラム最後の王朝であるナスル朝が、グラナダを明け渡して北アフリカに去り、レコンキスタが終了した。この年は、コロンブスが新大陸を「発見」し、大航海時代が始まった年でもある。まもなく、スペインは日の沈まない帝国になっていく。
( トレドの東側 )
( トレドの西側 )
深いタホ川の渓谷に囲まれ、さらに高い城壁で囲ったトレドの町の、その向こうは?
…… 耕地も、牧草の広がりも、人間のにおいのする村らしきものも、ない。視界の及ぶ限り、ただ、荒涼たる平原が広がっているように見える。
ふと、…… 地平をよぎるあの丘のつらなりに、忽然と、何千、いや、万を超える異教徒の軍勢が現れたとしたら …… と、想像してみる。
アンダルシアもさることながら、イベリア半島中央部の風土も、そこで繰り広げられた歴史も、やはり厳しい。
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< トレドの街歩き >
タホ川を渡らなければ、トレドに入ることはできない。タホ川に架かる橋は、町の東側と西側の2箇所しかない。
西側のサン・マルティン橋を渡って、城門をくぐった。城門は、橋の両側にあり、要塞化されている。
( サン・マルティン橋 )
( 橋の城門 )
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サン・マルティン橋からトレドの市街地へと坂道を上がっていくと、「カトリック両王の聖ヨハネ修道院」がある。
( 聖ヨハネ修道院 )
現在も生きている修道院で、受付で「静粛に見学してください」と言われた。回廊から見る中庭のオレンジの木が風情があった。
( 修道院の中庭 )
「両王」とは、カスティーヤ王国のイサベル女王と、アラゴン王国のフェルナンド王。 レコンキスタの勢力は、長い年月を経てこの2国に収斂され、この2人が結婚することによって、イスパニア王国が誕生する。
王子、王女時代から知り合い、イサベルが兄の死を聞き、カスティーリア王国内の反イサベル勢力に対抗して自ら女王位に就いたとき、アラゴンのフェルナンド王子は軍を率いて彼女を支援した。このときの勝利を神に感謝して建てたのがこの修道院で、ここを夫婦の墓所と定めていた。だが、グラナダ陥落後、グラナダのあまりの素晴らしさに感動して、そちらに墓所を置いた。
イサベルは決断力のある女性だが、終生、夫フェルナンドを敬い、仲は良かったらしい。
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イスラム時代は、首都のコルドバと同じように、トレドにおいてもイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒が仲良く共存していた。1085年にキリスト教勢力によってトレドが奪還されたあとも、宗教的寛容政策は受け継がれた。
イスラム教徒やユダヤ教徒がキリスト教への改宗を迫られ、改宗したと申し開きしても、それが本当か見せかけだけかまで、厳しく調べて、徹底的に弾圧するようになるのは、グラナダ陥落以後のことだと言われている。
一神教世界において、宗教的・思想的純化は必然のことで、イエスも「汝、狭き門より入れ」と言った。純化は、不寛容の裏返しである。
古来、日本列島は融通無碍の神々の島で、一神教世界の「神か悪魔か」「善か悪か」「光か陰か」などなどの二者択一の考えには、到底なじめない。
サンタ・マリア・ラ・ブランカ教会は、その名 (白いマリアの教会) のとおりキリスト教の教会だが、元は12世紀に建てられたユダヤ教のシナゴーグだった。建築に当たったのは、モーロ人(イスラム教徒) の工匠だったという。いろいろあったが、今は元の面影を残すように保存されている。もちろん、生きたシナゴークではない。博物館だ。
偶像がないのはモスクと同じで、白い柱の林立がすがすがしい。
(サンタ・マリア・ラ・ブランカ教会)
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曲がりくねった路地のような道に迷いつつ、トレドの中心、カテドラル (大聖堂) へたどり着く。このあたりは観光客でいっぱいで、カテドラルの中も大変な人ごみだった。
聖ヨハネ修道院やサンタ・マリア・ラ・ブランカ教会と比べ、観光客で賑わってはいるが、このカテドラルも、セビーリャのカテドラルの項で書いたのと同じで、情緒はない。
近くに城門のある、広場のレストランで、昼食兼夕食を食べた。
( 広場のレストラン )
( 町の門 )
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< 朝の光の中のトレド >
パラドールの自分の部屋からの眺めは最高だった。
西に日が傾いたころ、そして、翌朝、東から朝日が当たる時間帯が、特に素晴らしかった。
( 東側の橋の対岸を守るサン・セルバンド城 )
( アルカサルとタホ川 )
( カテドラル )
( サン・マルティン橋 )
( アルカサルと、サン・セルバンド城 )
( アルカサルとカテドラル )
( 続く )
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