ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

日本の最北端へバスは走る … 岬めぐりのバスに乗って (北海道の岬をめぐる旅) 3

2017年06月08日 | 国内旅行…岬めぐりのバスに乗って

第2日 (5/12)  日本の最北端へ向かって  

 バスはサロベツ原野に入った。良いお天気で、日本海には利尻富士が浮かんでいた。

 

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 朝、キロロの高原を出発し、小樽から札幌自動車道に入った。

 札幌から道央自動車道に入ると、石狩平野が広がり、車窓に北海道らしい田園風景が展開した。

   ( 車窓風景 : 石狩平野 )

 所々にある赤やピンクの屋根も、色がパステルカラー調に抑えられ、周囲の緑と調和してオシャレである。

 やはり、本州とは違う。北海道の景色は新鮮だった。

 バスは空知地方に入った。

        ★

< 空知川のほとりで > 

 「空知」「空知川」という、漢字のイメージや語感の響きから、北海道の原野を流れる川、その上に浮かぶ白い雲といったイメージが浮かんでくる。

 遠い昔、東京で過ごした学生時代、キリスト教(プロテスタント)と、日本近代文学の黎明期との関係について、関心をもち、勉強したことがある。

 プロテスタントは、幕末から明治の初めに、横浜、札幌、熊本に入ってきた。

 明治の初め、政府は北海道の開拓のために、まだ原野の札幌に、札幌農学校(北海道大学の前身)を創って開校した。  

 教頭としてアメリカから招聘されたクラーク博士が、数か月の1期生との交流の後、別れに際して、「Boys be ambitious」(少年たちよ、各自、大いなる志をもて」)という言葉を残したことは有名である。

 だが、彼はまた、その在任中に、開校に当たって作られた校則をすべて廃止して、「Be gentleman」の1つだけにした。生徒たちは、「gentleman」の意味・イメージがわからない。クラークが教えたかったのは、多分、「自立、自存」の人間であれということであったろう。遥か北海道の地に創られた官費支給の学校に学んでいた若者たちの多くは、元旗本・御家人など、維新の敗者の側に立たされた没落士族の子弟であった。彼らはそれを「武士」と置き換えて理解した。「各自、行動に当たっては、武士の心をもて!!」である。

 特に、その第2期生から、内村鑑三や新渡戸稲造という優れた明治人が育った。のちに新渡戸は国際連盟事務次長として活躍し、また、「太平洋の懸け橋」になろうと志した。彼が英文で書いた『武士道』は、アメリカ大統領をはじめ、多くの人々から称賛を受けた。

 話は少し下って、明治20年代。東京帝大初め、中・高等教育学校が整備され、また、私立のミッションスクールも開校した。この時期、若く知識欲にあふれた青年の間に、キリスト教(プロテスタント)に対するある種のブームが起こった。男女七歳にして席を同じうせずという儒教道徳で育った若者たちにとって、ハイカラなオルガンの音や、男女が同じフロアーのベンチで歌う讃美歌の歌声は新鮮で、プロテスタントのもつストイックな清教徒的開拓者的精神が、明治前期の「坂の上の雲」を目指す時代の精神に合っていたのであろう。牧師・植村正久(横浜バンド)、元一高の教師・内村鑑三(札幌バンド)、思想家・徳富蘇峰(熊本バンド・同志社系)らの門を、多くの青年が叩いた。

 そういう若者たちのなかに、島崎藤村、国木田独歩、正宗白鳥といった青年たちがいた。彼らは作家になる前の20代前半のころ、みな、植村正久のもとでクリスチャンになっている。

 国木田独歩は、教会で、佐々城信子というお嬢さんと知り合い、たちまち恋におちた。そして、彼女とともに北海道・空知川のほとりの原野に小屋を建て、額に汗する開墾生活を夢見る。清教徒的な夢で、いわば明治日本版の「大草原の小さな家」である。土地購入のため、遥々と歌志内(現在は市)の原野までやってきたが、信子嬢の母の猛烈な反対に遭って、挫折する。それでも紆余曲折の末、二人は植村正久牧師のもと、徳富蘇峰を仲人として結婚するが、その結婚生活は長続きしなかった。 (国木田独歩「欺かざるの記」、「空知川の岸辺」)。

 明治26年、日本語のなかに「恋愛」という言葉を創った北村透谷らが雑誌『文学界』を発刊。明治30年、島崎藤村が処女詩集『若菜集』を刊行。明治31年、国木田独歩が『武蔵野』を刊行。

 彼らは、キリスト教からも自立して、それぞれの道を歩み始める。

 明治初年代の札幌農学校の青春と、その影響下に育った島崎藤村、国木田独歩ら明治20年代の青春は、時代の若々しさと重なり合って、みずみずしい。

 「空知地方」…… その言葉の響きから、昔、勉強した、若き日の国木田独歩が夢見た「空知川」のことが思い出されて、少し書き留めた。

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小平の道の駅で >

 留萌(ルモイ)で高速道路を降りたバスは、日本海沿いの国道232号線をひたすら北上する。

 途中、小平(オビラ)という町の道の駅で昼食休憩。

 道の駅に、国の重要文化財「花田屋にしん番屋」があった。

      ( ニシン小屋 )

[ バスガイドの話 ] 小平町は、江戸時代から昭和30年ごろまで、ニシン漁で栄えた町だった。

 「にしん群来(クキ)」は春の季語。ニシンは、春告魚とも呼ばれ、春、産卵のため海岸に押し寄せた。ニシンがやって来ると、遠くから海が盛り上がり、海岸近くの藻に産卵して、海面が一面に乳白色になったという。網元たちはニシン漁によって巨万の富を得た。

 しかし、それも昭和20年代までで、昭和30年代以降、群来はぱったりとなくなった、そうだ。

     ( 「花田屋にしん番屋」 )

 ニシンは加工して〆粕にし、本州の菜種、綿花、藍などの肥料として使われた。江戸時代から、北前船によって盛んに運ばれたことが、司馬遼太郎の『菜の花の沖』にも描かれている。

 すっかり収獲量が減った今は、…… 「ニシン蕎麦」が旨い。しかし、何といっても、お正月の一番の御馳走は数の子である。子どものころ、母がよく、「数の子は庶民の食べ物だったのに、今は高級食品になってしまった」と言っていたのを思い出す。 

 番屋の前に設置されているパネルの説明によると、花田家は北海道屈指の鰊漁家だった。番屋の建物は、間口40m、奥行き23m。奥に親方と家族の居住部分があり、最盛期には、漁夫のほか、船大工、鍛冶屋など総勢200人を収容した。戦後、花田家は断絶し、小平町が建物を保存管理してきた、そうだ。

 海沿いの小公園には、幕末・明治の探検家、松浦武四郎の像が建っていた。「北海道」の名付け親である。

    ( 松浦武四郎の像 )

 もう一つ、石碑があった。「三船遭難慰霊の碑」である。

 [ バスガイドの話 ] 1945年8月22日(ポツダム宣言受諾後)、樺太(サハリン)から引き揚げてきた5000人を乗せた3隻の日本船が、番屋の沖の海上で、ソ連潜水艦の攻撃を受けて、1708人が亡くなった。

 石碑は、このことを忘れないよう、遺族らの努力によって、事件から30年後に建てられた、そうだ。

 降伏し、武装放棄した国の民間人をこのように襲う。言葉を失う。

 ソ連は何をしようとしていたのか??

   もし、当時、アメリカ軍という「存在」がなかったとしたら、千島列島だけでなく、最低でも、北海道は、ソ連(ロシア)の領土になっていただろう。アメリカ軍の存在があるから、手を引いたのだ。

 ロシアばかりではないが、その後の70年も、事情は同じだった。

 

        ( 日本海の海 )

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サロベツ原野を経て日本最北の町へ >

 車窓の右手に天塩山地の山並みが見えた。

   ( 天塩山地 ) 

 天塩川を渡ると、サロベツ原野が広がった。

 原野の向こうの青い海に、形の良い利尻山(利尻富士) が浮かんでいる。標高1721m。ここは、「利尻礼文サロベツ国立公園」である。

   ( サロベツ原野と利尻富士 )

バスガイドの話 ] サロベツは、アイヌ語で「アシの生える川」の意。湿地帯で、6月に入ると次々に花が咲く。また、鳥の集団渡来地でもあり、鳥の種類も動物の種類も多い ── そうだ。

  …… 5月の北海道は、まだ季節外れなのだ。「岬めぐり」のツアーは、どうやら観光の閑散期を乗り切るために組まれているのだ。6月に入ると、北海道はやっと寒い時期が終わり、次々と花が咲き、シーズンを迎え、もちろん、「岬めぐの」ツアーは終了し、例えば礼文島にお花畑を見に行くツアーが脚光を浴びたりする。

 それでも、礼文島のお花畑より、岬めぐりに行きたいという、変わり者もいる。

 車窓を、利尻富士がずっと追いかけてくる。もうほとんど日本最北の地である。

     ( 車窓風景:利尻富士)

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最北の町・稚内で >

 バスは稚内(ワッカナイ)の町に入った。今朝、小樽の南にある高原を出発して、ここまで延々と380キロのバスの旅だった。 

     ( 稚内港 )

 [ バスガイドの話 ] 空気が澄んでいれば、サハリンがよく見える。稚内港にはロシアの船も入り、ロシア人が歩く町 ── だそうだ。

 JR稚内駅に隣接する土産店に、バスは寄った。

 小さな駅の、ついに日本の線路がここで終わった、という所に、看板が立っていた。

 「最北端の線路」、「最南端から北へ繋がる線路はここが終点です。」とあり、最南端が「指宿枕崎線西大山駅」、そして、ここが「宗谷本線稚内駅」と書かれていた。

  

   ( 日本の線路の終わる所 )

  小さな改札口の上に電光掲示があった。「17:46 特急宗谷 札幌行き」。駅員に、札幌には何時に着くのか聞いてみた。「22時57分です」と丁寧に答えてくれた。

          ★

もう一つの岬・野寒布岬へ >

 今夜の宿は、駅前ではないが、駅前旅館の風情である。部屋も狭い。しかし、古い木賃宿にはヨーロッパ旅行で慣れているから、寝られたらよい。

 外は、まだ、十分に明るい。「野寒布岬へ行って、写真撮影して、また旅館まで帰ってくる」ということで、旅館のご主人に、タクシー会社へ電話してもらった。

   タクシーが来るまでの間、宿の主人が話してくれた。

 1983年に公開された映画「南極物語」のロケが、ここ稚内の真冬の野寒布岬近くの丘で行われた。主演の高倉健さんの付き人が来られて、「ロケの期間、この旅館に泊めてほしい」と言う。「見てのとおり、そんな大スターが何日も宿泊されるような立派な旅館ではない」と断った。ところが、「高級旅館は要らない。高倉健はこういう旅館に泊まりたいんだ」と言われて、お泊めした。ロケの期間、ずっと、狭い部屋に寝泊まりされ、この旅館からロケ地に通われた。そういう俳優さんなんですねぇ。

 映画そのものだ。

        ★

 タクシーの話に戻る。

 宗谷海峡に、入り江を挟んで、双耳のように、2つの岬が突き出している。

 日本最北端の岬は、宗谷岬。明朝に行く。

 もう一つの岬が、野寒布岬。バスガイドが言っていた。「ノシャップ岬」。4日目に行く、日本最東端の岬は、「納沙布岬」、「ノサップ岬」だと。

 どんな岬かわからないが、ツアーも行かない、名もない岬だ。だが、せっかく日本の最北端まで遥々とやって来た。この先、もう2度と来ることはないだろう。がっかりするかもしれないが、それでも、日本の最北端の、ナンバー2の岬も見ておきたい。ただ、観光バスで運ばれ、降りて、見学して、またバスに乗るだけの旅はつまらない。どんなに平凡な町でも、岬でも、自分で歩いたら、もっと印象が深くなる。名所、名勝めぐりばかりが、旅ではない。「たーどりー、着いたらー、岬のはーずーれ」というのが、旅らしい旅だ。

 タクシーで20分ほど走って、岬に到着した。港の延長のような半円の場所で、沖へ突き出しているわけではない。風が突風のように吹き、冷たい。

  トン先は小公園になっており、イルカがいた。赤と白の野寒布岬灯台がある。日本の灯台50選の1つ。 

  ( イルカの公園と野寒布岬灯台 )

 この岬からも、海上に利尻富士が見えた。明日、宗谷岬を回りこめば、もう見えなくなるだろう。

 

   (利尻富士が見えた)

 タクシーの運転手は、初老、瘦身。話すと、感じのいい人だ。利尻島に渡る船は稚内港から出るそうだ。スマホで利尻観光の写真をいくつか見せてくれた。

 「いつもなら、サハリンも見えるのですが…」。

 この岬一帯に、季節になると、たくさんのサケがやって来るそうだ。稚魚を放流して、どれくらい帰って来るかを調査している。だから、漁業権などない。誰でも釣っていいそうだ。本州からもやって来る。このあたりの海岸は、竿をもった人で鈴なりになる。

 「竿さえ持ってこられたら、私、一日、お付き合いしますよ」「何匹くらい、釣りますか?」「さあ、シーズン中に百匹以上。大きいですから、手ごたえがあって、楽しいんです。もちろん、夫婦二人では食べきれません。親戚はじめ、いろんな人に、全部上げるんです」。

 サケ釣りなんて、イギリスの紳士の遊びだ。

         ★

 「せっかくですから、『防波堤ドーム』もご案内しましょう」と言って、タクシーを走らせ、稚内港のはずれに連れて行ってくれた。

 タクシーを降りた途端、これは、ヨーロッパを舞台にしたハリウッドのアクション映画のロケ地みたいだ、と思った。ここに誘い出された主人公が銃撃され、犯人を追う。或いは、カーチェイスでもいい。…… ここでカーチェイスは、ちょっと不謹慎かな。

 

    ( 防波堤ドーム )

 戦前、樺太が日本の領土であったころ、稚内駅は終着駅ではなく、線路はここまで延びて、「稚内桟橋駅」があった。ここで列車を降りた乗客は、この波除のドーム状の通路を通って、稚内港まで歩き、樺太行きの汽船に乗船したのだそうだ。

 今は、稚内桟橋駅も、樺太(サハリン)行きの汽船もなくなったが、防波堤としての機能は維持している。

 「映画のロケに使えそうな雰囲気ですね」と言ったら、運転手が、「吉永小百合主演の『北のカナリアたち』のロケが、ここで行われました」と言う。「その期間、会社の指示で、吉永小百合をここまで送迎したのは、私です。あこがれの女優さんでしたから、感激しましたよ。でも、サインを頼んだりしてはいけないと、会社に言われていまして。プロに徹せよと」。

 この運転手さんなら、会社も安心して任せられるだろう。

 ドームのすぐ横の港に、海上保安庁の巡視船が停泊していた。思っていたよりずっと大きい。

 ここは、国境の町である。

   ( 列車の動輪と海上保安庁の巡視船 )

 旅は自分で行動しなければ、発見はない。発見がなければ、感動もない。

 あのまま旅館で風呂に入って、晩飯までゆっくりしたり、外に出て、土産物をあさったりしていたのでは、決して経験できない、いい時間を過ごせた。ありがとう、運転手さん。

 

 

 

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