(天空の村・ゴルド)
<プロヴァンスとは>
フランスの地図を広げて見る。広大な平野が広がるが、南部に山塊がある。
山塊の東部はスイスから延びてきたアルプス山脈で、アルプス山脈が切れると、その西には中央山塊がでんと控えている。
パリから飛行機に乗ってフランスの平野の上を遥々と飛び、やがてアルプス山脈にさしかかって、白い峰々の聳える山脈の上空を越える。越えるとすぐに地中海の青い海。そこが、イタリアとの国境に近いコート・ダジュールである。
フランス南部の山塊の、東がアルプス山脈で西が中央山塊。その間は峡谷となり、 ── 調度、南仏の東西の真ん中あたりになるが ── その峡谷をローヌ川が流れて、地中海に注いでいる。
この河川は、スイスのローヌ氷河に発し、レマン湖を東から西へ抜けて、さらに西へ流れ、フランス第3の都市・リヨン付近でソーヌ川を合わせる。そこから流れを南に向けて、最後はアルル付近で三角州をつくりながら、地中海に流れ込んでいる。
プロヴァンスとは、行政的にはフランスの地中海沿岸部の東半分、即ち、ローヌ川を境とする東の地域を指す。従って、コート・ダジュールもその範囲に入る。
しかし、プロヴァンスという言葉には、遥かに遠い昔から開けた地というイメージがある。歴史的には北のパリなどよりずっと早くから文明の光があった地だ。南仏でも、ローヌ川の河口付近。フランスの地中海沿岸部を3等分したら、その中央部あたりを指す。
プロヴァンスについて、饗庭孝男は『フランス四季暦』(東京書籍)の中で、このように書いている。
「1年をとおして250日余が晴天のこの地中海沿岸は、 …… 時に氷雨が降る暗い北のパリとくらべて、すでに3月の中ごろから、杏や桜の花が、防風用の糸杉やオリーブの樹にかこまれた赤褐色の農家のまわりで咲き、春の趣を見せてくれる。…… 」。
「この地方は、地中海に沿って、東から古代文化がいち早く伝えられたところである。またフランスのキリスト教化の出発点でもあった。
アルル、ニーム、アヴィニヨン、それにサン・レミ等、どこを歩いても古代遺跡を目にすることができる。
紀元前600年ごろに、すでにギリシャ人はマッサリア (フランス第2の都市・マルセイユ) に都市をつくっている。やがてそれをカルタゴ人が攻めて60余年を統治し、紀元前218年には (カルタゴの) ハンニバルが (ローマを攻略しようと) プロヴァンスをとおってアルプスに達した。
のちにケルトの支配する内陸部をローマ軍が攻めて追い払い、1世紀の終わりには、ローマのアウグスト皇帝がこの地方を統一し、ローマ文化が具体的な建物となって、この光にみちた野にあらわれてくる。
本来、プロヴァンスという名前は、プロヴィンキア・ローマ (ローマの属州) に由来する」。
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<セザンヌの山>
2010年10月7日㈭ 晴
朝食を食べ、荷造りもして、バスに乗り込み、7時45分に出発した。あわただしい。
今日は、ニースのホテルを出発して、アルル → ゴルド → アヴィ二ョンを見学し、宿泊地はアヴィニョン。(今回のブログ ― 第3回はゴルドまで)。
ニースからアルルまでは250キロ、3時間半のバス旅だ。
バスの中で眠る人が多いが、私は車窓風景を眺めて飽きない。その土地の風土を感じることが好きだ。バスの車窓の高さがちょうど良い。乗用車では、たとえベンツであろうと、こうはいかない。
バスはプロヴァンス地方に入り、エクス・アン・プロヴァンスという町の近くを走る。
ローカルな都市だが、プロヴァンス地方の政治や学問の中心都市だ。大学町でもある。
私の好きな画家の一人・セザンヌ(1839~1906)は、この緑豊かな町に生まれ育ち、若い頃の一時期パリに出たが、都会の水になじめず、すぐに故郷に帰って、この町の身近な自然や静物を描き続けた。よく、キャンバスと椅子を背負ってサント・ヴィクトワール山が見える野に行き、三角錐の岩塊を繰り返し描き続けた。
車窓から、サント・ヴィクトワール山に連なる岩塊が見えた。白い石灰質の岩山で、日本の山とは趣が違う。
(車窓から/セザンヌの山塊)
この町で、セザンヌは、子ども時代にエミール・ゾラと仲良しだった。成人して、二人は喧嘩別れしたと思われていたが、手紙が発見されている。偉大な画家と文豪は、晩年まで、お互いに敬愛の情をもち続けていた。
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<古代ローマが残るアルルの町>
アルルは、地中海からローヌ川を20キロほど遡った河港として発展した町だ。
ガリア(フランス)の内陸部に通じるローヌ川の水運と、地中海の水運が、アルルによって結ばれていた。
さらに、ローマから南フランスを経てイベリア半島に達する、アウレリア街道の要衝でもあった。全ての道はローマに通じる。
AD1世紀には、初代皇帝アウグストゥスが、交易港の町だったアルルを、ローマの都市らしく整備した。
この町の円形闘技場は、ローマのコロッセオより100年ほども古く、保存状態の良さでは3指に入るという。
周囲の外壁は2層(もとは3層だった)の60のアーチからなり、収容人員は2万6千人。
(円形闘技場の外壁)
今も、夏の夜、オペラやコンサートなどのイベント会場として使われている。残念ながら、このツアーは入場観光しない。
この旅の前、イタリア紀行で、ローマのコロッセウムの迫力ある外観を眺め、中に入ってその構造や柱やアーチなどの圧倒的な存在感を目にしていたから、良しとしよう。
すぐそばにアウグストゥス時代の古代劇場もあったが、ここも素通りした。
レピュブリック広場はこの街の中心。真ん中に記念塔が建ち、市庁舎やサン・トロフィーム大聖堂がある。
(レピュブリック広場)
サン・トロフィーム大聖堂は、南仏を代表するロマネスク大聖堂の一つだが、やはり素通りだった。
※ その後、2015年の「陽春のブルゴーニュ・ロマネスクの旅」で、ブルゴーニュ地方のロマネスク大聖堂をめぐった。
アルルはまた、画家ゴッホ(1853~1890)が才能を花開かせた地でもある。
「北方に生まれたゴッホが、このプロヴァンス地方の光に惹かれたのも無理はない。1年余の短いアルル滞在にもかかわらず、彼が多くの作品を描いたのも、この光にみちた風物のせいだろう」(饗庭孝男『フランス四季暦』)
ゴッホが右耳を切って入院した市立病院の跡地は、今、「エスバス・ヴァン・ゴッホ」という施設になっている。ゴッホ時代の病院の復元された庭だけ見た。
さらに、ゴッホの絵に描かれた「跳ね橋」のレプリカを見学した。
跳ね橋よりも、その先にあった古代ローマの運河の方に興趣があった。
(ローマ時代の運河)
アルルから地中海へと流れるローヌ川の下流は、流れが激しく船の航行に難儀した。そこで、BC1世紀の初め、共和制時代のローマの実力者マリウスが運河を掘った。2千年も前の運河である。19世紀のゴッホの時代、運河はまだ使われおり、ゴッホの描いた跳ね橋はこの運河に架かっていたものだ。
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<「フランスで最も美しい村」のゴルド>
アヴィニョンへ行く途中、「フランスで最も美しい村」に選ばれたゴルドに寄った。
「美しい村」は、最近、日本のツアー会社も注目し、フランス・ツアーに組み込まれるようになった。
その立候補条件は、人口2千人以下、2つ以上の遺跡・遺産があり、開発を制限して景観を保護し、村の議会が登録を承認していること。いかにもヨーロッパらしい取り組みだ。観光ばかりでなく、そういう村で暮らしたいと、大都会から転居してくる人たちもいる。
ゴルドは「天空の城」と言われる。家々は、岩山の山頂から山麓へとへばりつくように建てられている。
(天空の城のようなゴルド)
遠い昔、最初にケルト人がこの岩山に城塞の村を築いた。
その後、この村もローマのプロヴァンス(属領)となり、山頂部にはローマ神殿が建てられた。
ローマが滅亡し、ローマ化されたガリア人の住む南仏にもゲルマン人(フランク族)が侵攻してくる。そして、侵入者も含めて、人々の中にキリスト教が広がると、ゴルドの山頂のローマ神殿は、修道院に変えられた。
だが、中世前期の西ヨーロッパ社会の統治機能は虚弱で、ゴルドにもアラブの海賊が侵攻して、村も山頂部の修道院も略奪・破壊された。北アフリカの海賊は、地中海を越え、ローヌ川を遡って、この岩山の上の村まで襲っていたのだ。
(メインストリートの正面は城)
しかし、中世も11世紀になると、山頂部には城が築かれ、村にも防衛設備ができていく。
14世紀の百年戦争の時期には、岩山の麓を囲う城壁も築かれた。
今、山頂部にある城は、16世紀のルネッサンス期のものだそうだ。
一般の家々は、平たい石を積み重ね漆喰で固めた壁でできている。
(ゴルドの小道)
昨日も、今日も、暑い。
出発前にネットで調べたフランス各地の気温は日本よりかなり低く、添乗員からも寒さ対策が必要との電話連絡があった。
だが、大陸の気候の変化は激しい。長袖シャツの袖を肘の上まで捲り上げているが、歩いていても、体に汗がにじみ出てくる。
ゴルドの村の麓近くまで歩いて下りたとき、木綿の手作り工房を営む家があった。そこで白木綿の半袖シャツを買い、包装は断って、その場で着た。
袖が長袖か半袖かの違いだけのようだが、半袖シャツがこんなに爽やかで快適だとは思わなかった。
化繊ではなく、木綿にこだわって工房を営むところも、「美しい村」らしくて良い。
(この日は、このあと、アヴィニョンへ。続く)
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