ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

大航海時代の幕を開けたテージョ川河口へ … ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅 4

2016年12月06日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

     (テージョ川の河口)

 リスボンの町の中心部から車で20分も行けばテージョ川の河口に出る。その先は大西洋

 Rio Tejo (テージョ川)は、スペイン語では Rio Tajo (タホ川) 。

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タホ川からテージョ川へ >

 スペインの中央部に位置する首都マドリッドから、都市間バスで行くと1時間少々のところに、古都トレドがある。

 ローマが滅亡した (476年) 後、イベリア半島に侵入し支配したのは、ゲルマン民族の一部族・西ゴード族であった。彼らは首都をトレドに定めた (560年)。

 トレドは町の三方向をタホ川の渓谷に囲まれ、丘の上に築かれた要塞のような町である。 ( 当ブログ「アンダルシアの旅 = 陽春のスペイン紀行」を参照 )。

  (タホ川の渓谷に守られる古都トレド)

 トレドを囲繞するように流れたタホ川は、スペインの台地を横断して、流れ流れてポルトガルに入り、テージョ川 (Rio Tejo) となって、リスボン郊外で大西洋に注ぐ。

 トレドに都が置かれた時代は長くはなかった。711年、西ゴード族は、アフリカ大陸からジブラルタル海峡を渡ってきたイスラムの軍勢に大敗し、イベリア半島の北の端と、東の端に追いやられた。

 以後、イベリア半島はイスラム教徒によって統治され、彼らの先進的な文明がイベリア半島で花開いた(後ウマイヤ朝)。マドリッドはそのころはまだ、イスラム勢力によって造られた小さな防御施設に過ぎなかった。

 キリスト教徒の反撃 (レコンキスタ = 国土回復戦争) が本格的に始まったのは10世紀である。

 レコンキスタは500年かかり、1492年、アンダルシアの一角、イベリア半島の南端に追いつめられていたイスラム勢力の最後の王国グラナダが陥落することによって終了した。( 当ブログ「アンダルシアの旅 = 陽春のスペイン紀行」を参照 )。

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< レコンキスタのなかから生まれたポルトガル王国 >

 11世紀末、ローマ教皇の呼びかけによって、西欧全土から十字軍がおこり、多くはエルサレムに向かったが、スペインのレコンキスタを助けようとやってきた騎士たちもいた。

 1096年、カスティーリア・レオン連合王国 (スペイン) の国王は、フランスのブルゴーニュからやってきた騎士エンリケ・ド・ボルゴーニュの対イスラム戦争の戦績をたたえ、ドウロ川の流域・現在のポルト周辺に領地を与えて、伯爵とした。

 彼は、故郷のブルゴーニュからブドウをもってきて植えた。今も、ドウロ川流域はブドウの名産地であり、ポートワインとして名を知られている

 伯爵の子、アフォンソ・エンリケスは、さらに南下してイスラム勢を破り、スペイン王及びローマ教皇の承認を得て、1143年、ポルトガル王国を建国し、アフォンソ1世となった 。

 リスボンの大聖堂は、アフォンソ1世がリスボン奪取を記念して建設させたもので、いざというときには要塞として使えるように造られたから、見た目もイカツイ。

 (テージョ川に臨むリスボン大聖堂)

  ポルトガルの歴史では3つの王朝が交代するが、この最初の王朝はブルゴーニュ王朝と呼ばれる。

 その後も南へ南へとレコンキスタを進めていったポルトガル王国は、建国後約100年の1249年、アフォンソⅢ世のときにイスラム勢力を大西洋に追い落として、現在の範囲の国土を確立させた。スペインのレコンキスタ終了よりも250年早かった。

< 番目の王朝・アヴィス王朝の成立 >

  14世紀中ごろ、ポルトガルはペストが流行し、経済は衰え、国は疲弊する。しかも、国王はたった一人の娘をスペイン王に嫁がせたから、国王が死んだあと、スペインはポルトガルを併合しようとした。スペインに嫁いだ亡き王の娘 (新ポルトガル国王) も、摂政 (その母) も、大貴族たちも、スペインへの併合に向けて動いた。

 だが、このとき、ポルトガルを守ろうと、中小貴族とリスボン市民たちが立ち上がった。

 リスボンは、地中海と大西洋・北海方面を結ぶ天然の良港として、イスラム時代に開かれた港町である。レコンキスタののち首都となったが、リスボンの町の主勢力は貴族(大土地所有者)でも、騎士でもなく、船乗りたちや商人たち、すなわち市民であった。リスボン港には、商館が建ち並んでいた。

 ポルトガル王国がスペインに併合されそうになったとき、リスボン市民はこの町に籠城してスペイン軍に立ち向かったのである。彼らは戦いに際し、前王の異母弟で、キリスト教騎士団 (本拠がアヴィスにあったから、アヴィス騎士団ともいう) の団長であった若者を戦いのリーダーに据えた。彼は市民軍を率いて、圧倒的なスペイン包囲軍を撃退した。

 中小貴族やリスボン市民は、次のスペインとの戦いに備えて、この若者・ジョアンを王に立てた。ジョアン1世である。

 翌年、ジョアン1世は、リスボン郊外の野において、5千の市民軍を率いて、2万の騎士と1万の歩兵で構成されたスペイン軍を迎えうって、再度、敗走させた。

 こうして、ポルトガルの2番目の王朝、アヴィス王朝が成立する。

 このあと、ジョアン1世は、大国スペインに備え、英国と同盟を結ぶ。この同盟は、以後600年間、破られることがなかった。彼はまた、英国王族から王妃を迎えた。

 この王朝の特徴は、第一に、王は、中小貴族や市民によって推戴されて王になったということである。第二に、その王を担いだ主勢力が船乗りや商人たちであったということである。ポルトガルは貧しい小国である。海商たちからの税金は、国家 (王室) 財政の大きな財源であった。

 ジョアン1世と英国から輿入れした聡明にして知的探求心の強い王妃フィリッパとの間に生まれた3番目の息子が、のちの「エンリケ航海王子」である。

 なぜ王子エンリケが、自分のロマンと国家の夢を重ね合わせて海洋に乗り出し、ついに「エンリケ航海王子」と呼ばれるようになったのか、という背景がここにある。

 (ポルトの街中で見かけたエンリケ航海王子と白い雲)

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< 9月27日 >

 リスボンでの第1日目は、ネットで日本から申し込んでおいた「リスボン近郊日帰りツアー」に参加した。

 ドライバー (兼ガイド) のM氏は初老の大柄な男性で、このコースの行く先々で、「顔が利く」、という感じの人だった。

 このツアーのコースだが… 、旅の初日に、いきなり旅の佳境に入る。大航海時代の幕開けとなるヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見する旅に出たリスボン郊外の埠頭・ベレン地区や、この旅の最重要目的地の一つロカ岬も、この日のコースに入っている

 まず、リスボンの中心街にあるアルカンタラ展望台へ。この展望台は、自力で行くとすれば、リベルダーデ通りという華やかな大通りから、ケーブルカーに乗って上がった高台にある。

 美しい小公園になっていて、リスボンの街並みやテージョ川を望むことができた。このような展望の好い所は、リスボンの街中のあちこちにある。とにかくリスボンは丘の街なのだ。

      (アルカンタラ展望台)

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< 4月25日のカーネーション革命のこと >

 車はリスボンの市街地を抜け、河口の方へ走って、テージョ川に架かる「4月25日橋」を渡った。

 さらに対岸の丘をのぼって行き、「クリスト・レイ」に着く。 1959年に完成した、高さ110mのキリスト像である。

 

   (クリスト・レイ)

 ここから、さっき渡ってきた「4月25日橋」を望むことができる。

   ( 4月25日橋 )

 ドライバー兼ガイドのMさんは、ポルトガル人として、この橋に感動してほしいようだったが、瀬戸大橋を見慣れた日本人の眼には、珍しい景色ではない。ただ、一片の雲もなく晴れて、気持ちが良かった。上を車、下を鉄道が通る。3日後、サグレスへ行くときは、列車でこの橋を渡って、南へ南へ、ポルトガルの最南端を目指すことになる。

 対岸の、橋の左手一帯が、テージョ川の河口近くに開けたベレン地区の埠頭  である。

 旅行に出る前に、ポルトガルを舞台にした映画がないかと探し、1本だけ見つけた。『リスボンの風に吹かれて』。サラザールの独裁体制と闘う学生たちの政治闘争と愛が回顧的に描かれていた。

 1966年の開通時、この橋は「サラザール橋」と呼ばれていた。

 ポルトガルの3番目の王朝は1910年に倒れ、以後、共和制になる。だが、共和制は機能せず、1932年からはサラザールが首相になり、独裁体制を敷いていった。この体制は、隣国スペインのフランコ体制に似て、第二次世界大戦を間にはさんで、40年間も続いた。その間、国内にあっては独裁と弾圧があり、外にあってはポルトガルの植民地ギニアの独立運動に対する戦争が泥沼化し、経済的にも西欧の最貧国になっていった。

 しかし、ついに1974年4月25日におこった青年将校たちによる無血クーデターによって、「20世紀最長の独裁政権」は終わりを告げる。「カーネーション革命」と呼ばれる。新政権は、秘密警察の廃止、検閲の廃止など、矢継ぎ早に民主化政策を実施して、「ポルトガルの春」と呼ばれた。

 こうして、「サラザール橋」は、「4月25日橋」と名を変えた。

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 ドライバー兼ガイドのMさん。正規のガイド資格は持っていないらしく、説明は車の中だけである。

 運転しながら英語でガイドしてくれるのだが、熱が入ると、前方を見ず、後部座席の我々の方を向いて、時には両手を振り回して熱弁をふるう。私には、フロントグラスの向こうに、二人乗りの自転車がふらふらと走っているのが見えて、とても気になる。速度を落としているが、それでも車はどんどん近づく。わからない英語の説明よりも、そちらの方が何十倍も気になって、我慢できず、思わず「アブナイ」と叫びそうになった。

 とはいえ、ヨーロッパのどこの国のタクシーも、時には乗り合いバスでさえも、我々日本人からみれば恐怖のスピードで疾走するのに、Mさんは決してムリな走り方はしない。見学地に着いて車を降りるときなども、客の安全を気遣って、自分が先に降り、必ず客の安全を確保する。

 世界的な現地ツアーのサイトに登録されている、リスボン出発の日帰りツアーの中から選んだのだが、たぶん、そのサイトに登録している一つ一つのツアー商品の多くは、個人営業なのだろう。もし人身事故でも起こしたら、二度と立ち直れない。私がこのツアーを選んだのも、行先がマッチングしていたこともあるが、過去にこのMさんのツアーに参加した日本人が多く、体験談を読むと、評判が評判を呼んでいることがわかるからだ。

 「あれがリスボンのサッカー場だ」。

 「ポルトガル人はみんなサッカーが好きだ。ポルトガルは小国で、大航海時代の一時期を除いて、何も自慢できるものがない。今年、サッカーのヨーロッパ大会で、ポルトガル代表チームが優勝したんだ。あのときは、勝ち上がるごとに、昼も夜も、国民みんなが息をつめるようにして毎日を過ごしたよ。ポルトガルにはサッカーしか、ないんだ」。

 サッカーで大騒ぎするイタリア人やイギリス人やフランス人と違って、息をつめるようにして日々を過ごした小国のポルトガル人に、胸がきゅんとなった。厚かましく、傍若無人な輩はいやだ。

 「サッカーのことは詳しくないが、ロナウドは知っている。長身で、ハンサムで、身体能力が高く、しかも、素晴らしい技術をもっている。なにより、フェアーでクリーンな選手だ。『バルセロナ』にもすごい選手がいるが、『レアル』のロナウドが一番クールだ」と言うと、Mさんは大きくうなづき、「クリスティアーノ・ロナウドはポルトガル代表チームのキャプテンだよ」と言った。

 やがて、川か海か、水際に公園が広々と広がる地域に入った。駐車場スペースは観光バスや乗用車でいっぱいだ。世界からの観光客が駐車場から群れをなして歩き、あるところでは、長蛇の列ができている。ジェロニモス修道院の華麗な姿も見えた。

 ベレン地区の埠頭にやってきたのだ。

 


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