( 白米の千枚田 )
読売俳壇(2018、10、29)に、こんな句が掲載されていた。
「千の田に千の水口水落とす」(輪島市 大向稔さん)
宇多喜代子氏の選評「よく知られた輪島の千枚田。いま観光客の目を集めているが、そもそもは一粒でも多くの米をと造られた田だ。観光田んぼならぬ稲作のための田んぼの句」。
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この旅の間、あちこちで「能登立国1300年」という幟を見た。まるで能登国が1300年前に日本国から「独立」したかのごとくだが、もちろん、そういうことではない。
石川県は、旧「加賀国」と旧「能登国」によって構成されている。
加賀と言えば「前田百万石」という言葉に象徴されるように、城下町の金沢は兼六園や九谷焼、加賀友禅、金沢箔、和菓子などなど、いかにも雅やかである。
それに対して、能登というと、草深い果ての地というイメージが、なくはない。
しかし、「能登国」が「越前国」から4郡を分離して「国」に昇格したのは、今から1300年前の718年である。
畿内の中央政権にとって、能登半島は未だまつろわぬ蝦夷に対しても要衝の地であり、また、大陸に向き合って、例えば8~9世紀、能登国の志賀町の福浦港は渤海使受入れの玄関口となった。
こうした積極的な理由で、能登が一国として昇格した一方、加賀地方は依然として「越前国」の一部として残された。
ちなみに、加賀が「加賀国」になったのは、「能登国」に遅れること100年以上を経た823年で、令制国の最後に建てられた国である。その理由も、「越前国」の国司が、加賀地方は国衙から遠く、それを良いことに郡司をはじめ勝手なことが多くて手に負えない。よって、分割して、別の国司によって直接に統治されるべき、と中央政府に意見書を出したからである。実は、当時の加賀地方はまだ草深い湿地帯で、加賀平野が本格的に開拓され豊かになるのは中世以後のことである。
とにかく、古代においては、能登の方が先進地域だったのだ。
さらに遡れば、能登国の一の宮の気多大社の祭神は大己貴命(オオナムチノミコト)で、大国主命のことである。出雲系の神社は、山陰の出雲→伯耆→因幡から、北陸の越前→能登、さらに諏訪地方にまで広がっている。このことは、遠い昔、ヤマトに畿内政権が生まれる前に、日本海文化圏が存在した可能性を想像させる。
能登半島は日本海に大きく突き出して、岬や断崖や磯が多く、内陸部は丘陵地帯で、平地は極めて少ない。だが、対馬海流に乗ってやってくる豊富な回遊魚を追って、人々もまたやってきた。入り組んだ地形を生かして、小さな漁港があちこちにできた。
昨日、羽咋(ハクイ)駅から迎えのバスに乗り、「志賀町」の日本海に近いホテルに一泊した。
この「志賀」の本家本元は、九州の福岡だろう。博多湾を囲うように玄界灘に伸びた細長い砂洲(「海の中道」)。その先端にある島が「志賀島」である。そこに「志賀海神社」がある。海人族・阿曇氏が祀る綿津見神の総本社である。(参照 : 当ブログ『玄界灘の旅』の10「海人・阿曇氏の志賀海神社へ行く」)。
滋賀県にも琵琶湖の西岸に「志賀」があって、海人族の痕跡を残している。
能登半島の「志賀」もこうした一連のもので、対馬海流に乗って日本海を行き来した海に生きる人々の姿がうかがわれる。
中世においても、能登半島は、日本海側海上交易の根拠地であり続けた。
江戸時代になると、能登半島の海に生きる民は、大坂に拠点をもち、北前船を経営する近江商人の「雇われ船頭」として、輸送を委託されるようになる。彼らは蝦夷地と大坂とを結ぶ航海を任され、次第に商いのやり方を身につけて、やがて自分の持ち船を持つようになっていった。
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( 日本海に沈む夕日 )
だが、弥生時代から江戸時代まで、日本はずっと稲作を中心に生きてきた民である。能登半島は稲作には向かない。どうしても稲を作り、畑の作物を食べたいなら、棚田や段々畑を作るしかなかった。
バスは今日の最後の見学地、奥能登第7景の「白米(シロヨネ)の千枚田」へ向かっている。
バスの車窓から、海に沈む夕日が見えた。
ライトアップされた千枚田を見るのだから、早く着きすぎてもいけない。バスの運転手と添乗員の行程管理の腕の見せ所である。
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太陽は海に落ちて、あたりはなお明るい。
しかし、空気は刻一刻と冷え、上着を着て、ライトアップを待つ。
この棚田は輪島市の中心部から北へ13キロ。行政的には輪島市に入る。地図を見ると、町名を名舟という。
今は70戸ほどの半漁村だが、「御陣乗太鼓」の発祥の地として知られている。今も夏の大祭のときには、小さな村を挙げて取り組む。
1576年、上杉謙信は、七尾城に拠る守護大名の能登畠山氏を攻略し、余勢をかって奥能登平定に駒を進めた。そのとき、名舟村の村民は、木の皮で恐ろしい面を作り、海藻を頭髪として、太鼓を激しく打ち鳴らしながら、鎌や斧を手に上杉勢に夜襲をかけて退散させた。
NHKBSに「新日本紀行」という優れた番組がある。そこで「能登」が取り上げられたとき、御陣乗太鼓も紹介された。漆黒の闇にかがり火の明かり、この世のものならぬ形相の面をかぶり、奇怪な仕草で太鼓を打ち鳴らす姿は、文字どおり「鬼気迫る」迫力があって、人の情念を揺さぶる。
日本の文化のなかから生まれた鬼とか天狗とか物のけという存在は、天国だとか地獄だとかを説くキリスト教のゴッドや仏教の仏と違って、人間に近く、人の世の闇に棲みつき、どこか愛嬌もあって、好ましい。日本のよき理解者である小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が愛した世界でもある。
海も田も、夜の闇に包まれてくると、既に灯されていた無数の光が次第にくっきりと鮮やかになっていく。
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昨夜は和倉温泉に泊った。温泉らしい温泉の泉質は、年齢とともに、きついと感じる。
旅の第3日目の朝、和倉温泉からバスを走らせ、輪島の朝市に行く。奥能登の第2景である。
とりとめもなく朝市を歩き、せめて輪島塗の箸を買った。
能登国の内海側の中心は古来から七尾で、「ノト」という地名も律令以前から能登氏という豪族が七尾のあたりにいたことによる。
一方、輪島は、奥能登、或いは、外海の中核の町で、中世には日本を代表する港である三津七湊の一つであった。北前船の時代になると、その寄港地としていっそう豊かになる。
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奥能登七景の最後の見学地は、出発点の志賀町に戻り、第1景の「ヤセの断崖」(能登金剛)だが、先ごろの台風の影響で道路が通行止めになって、代わりに「千里浜なぎさドライブウェイ」を走ることになった。能登金剛は、松本清張の『ゼロの焦点』の舞台になった場所だ。残念!!
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能登半島の東の付け根の氷見市の「ひみ番屋街」で、各自、おそい昼食をとる。注文したおまかせ定食は、富山湾の幸が美味であった。
さらに南下して、高岡市に入り、国泰寺という臨済宗の寺に寄った。寺のガイドの女性から1時間も説明を受ける。主に、この寺と、後醍醐天皇及び山岡鉄舟とのかかわりについて。
能登にはもっと歴史的な寺もあるが、近頃、映画『散り椿』のロケがこの寺で行われた。映画はもちろん観た。
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旅の最後の見学地は雨晴(アマハラシ)海岸。前回のブログで、氷見市と書いたが、氷見市から続く海岸で、ここは高岡市に入る。
ちょっと趣のある踏切を渡って、海岸に出る。
3000m級の立山連峰は、富山湾の遥か向こうに、シルエットとなって横たわっていた。
海岸を歩いていると、一瞬、宮沢りえかと思う美女が風景写真を撮っていた。連れの女性との会話から中国人だとわかる。中国人も韓国人も、化粧も服もまるで映画スターのようにストレートで、さりげないオシャレ、という感覚はない。
福岡や大阪や京都ばかりでなく、今や、日本海側の石川、富山、能登半島にも、東アジア系の外国人が、こうして個人旅行する時代になった。
バスのベテランドライバーに、ここ(氷見の海岸)に来るのに一番良い季節はいつかと聞いてみた。冠雪の立山連峰が青空に映え、しかも、富山湾の幸が美味しいのは1~3月だという。東京や関西の人は雪を心配するが、豪雪は新潟のことで、石川県はそう心配することはないとのこと。ただし、旅行中、晴れて絶景が見られるかどうかは運次第。その日のことはわからない。
かつて、早春のころ、出張で富山に来て一泊し、夜、道路に雪の残る富山駅近くの居酒屋に入ったら、寒ブリの刺身が驚くほど旨かった。あの旨さは忘れられない。
しかし、もう一度来るとしたら、富山湾の幸よりも立山連峰を優先して、やはり4~5月かなあ。
少し高台の道の駅から展望すると、海岸沿いに道路が続き、旅情を誘った。
稜線の中央部のごつごつと聳えているあたりが剣岳だそうだ。ということは、その横の薄く白雪が残っているように見えるのは、立山だろうか。
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金沢を午後7時の特急に乗った。家には随分おそく着いた。
能登半島は、荒々しい風景もどこかやさしく、豊かで、文化があり、日本らしい繊細さがあって、良いところだと思った。
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