(トマールの市庁舎と丘の上のキリスト修道院 )
トマールは小さいが、美しい町である。
夜、キリスト修道院のライトアップされた城壁が、丘の上に見えた。それは、町を見守るかのようであった。
1147年、サンタレン (今はトマールを含む県) をイスラム勢から奪回したときの功績により、ポルトガルの初代の王・アフォンソⅠ世は、テンプル騎士団に、ナバオン川の流れる土地を与えた。騎士団はその丘に、要塞を兼ねた修道院を建造して、彼らの本部とした。
12世紀の終わり、イベリア半島に対するイスラム勢の反転攻勢があったときも、テンプル騎士団はこの城塞に立てこもって持ちこたえた。
14世紀、テンプル騎士団解散の後、修道院はそのままキリスト騎士団の本部として受け継がれた。
15世紀、エンリケ航海王子がキリスト騎士団団長に任ぜられたとき、当然、彼も団長としてここに居を置き、首都リスボンや遠くサグレス村に通った。
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< アズレージョのあるトマールのホテル >
旅行に出る前、どのホテルに泊まろうかとネットを開いて調べたとき、ほんの少し足を延ばせば、旧市街のはずれに近代的でオシャレなホテルが1軒あることも知った。迷ったが、あえて旧市街のメインストリートにある、小さな古ぼけたホテルの方を選んだ。
主人は英語を話し、朴訥な愛すべき人で、ホテル代は申し訳ないぐらいに安かった。
だが、薄暗い階段を上がって入った部屋は、狭くて、床は明らかに傾いていた。しかし、歴史あるヨーロッパを旅する以上、こういうホテルもまた良しとすべきである。
通りに面したホテルの玄関横の壁には、年代物らしいアズレージョの絵が貼ってあった。アズレージョは、ポルトガルを代表する美術工芸品で、タイルにコバルトを使って絵を描く。
( ホテル玄関のアズレージョ )
左側の絵は、トマールの丘の上のキリスト修道院にある、有名なマヌエル様式の窓を絵に描いたものである。下の写真が本物の窓で、頂点にキリスト騎士団のしるしである独特の形の十字架があり、その下に大航海時代を表すロープや鎖が彫られている。
(マヌエル様式の窓)
右側のアズレージョには、町を流れるナバオン川の、古い昔の風景が描かれている。
( 現在のトマールの町とナバオン川 )
メインストリートの古い町並みのなかでも、玄関にアズレージョを飾ったホテルやレストランは他にないから、歴史あるこのホテルの自慢の一品なのだろう。
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< テンプル騎士団の築いた「城塞」へ向かう >
キリスト修道院へ行く道は、『地球の歩き方』の小さな地図ではよくわからず、方向だけ決めて、レプブリカ広場からひたすら上へ上へと上がって行った。たちまち息が切れるほどの急坂だった。これでは、敵軍も、腰や膝の負担が大変だったろう。
やがて、えっ、これが修道院 というような、イカツイ城壁が現れ、城壁に沿って進むと、城門が見えてきた。そうか!! 修道院と言っても、戦う騎士団の修道院は、普通の修道院と違って、城塞そのものなのだ。
( 城門が見えてきた )
( 城 門 )
城門をくぐると、目の前に巨大に建物がそびえている。歳月を経て次々と増改築されたこの修道院の中でも、最初にテンプル騎士団によって建造された礼拝堂である。「テンプル騎士団の聖堂」、或いは、その形状が16角形であったため、「円堂」とも呼ばれる。
( テンプル騎士団の聖堂 )
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< 騎士団について >
地中海に浮かぶ島・ロードス島は、膨張を続ける超大国トルコに近づいて、匕首を突き付けたような位置にある。
そのロードス島の要塞に籠城する聖ヨハネ騎士団と、これを殲滅せんと決意したスレイマン大帝率いる20万のトルコ軍との戦いを描いたのが、塩野七生の『ロードス島攻防記』である。16世紀初頭の話である。
20万のトルコ側に対して、聖ヨハネ騎士団側は、騎士600人、従士1500人、ロードス島民 (ギリシャ系) の兵士3000人であった。6か月の激しい籠城戦ののち、聖ヨハネ騎士団は降伏・開城する。攻めきれず、スレイマン大帝は騎士団に、名誉ある撤退を許したのである。生き残った騎士180人は、本拠をマルタ島へ移して再興し、マルタ騎士団と呼ばれるようになる。
この作品のなかで、塩野七生は騎士団について、このように説明している。
「イタリア語のカデットという言葉を、百科全書は次のように解説している。
── フランスはガスコーニュ地方に生まれ、中世以降全ヨーロッパに広まった言葉。封建貴族の二男以下の男子を意味した。中世の封建制下では、家督も財産も長男一人が相続する習慣であったので、二男以下は、聖職界か軍事の世界に、自らの将来を切り開く必要があったのである」。(『ロードス島攻防記』)
「騎士団に属す騎士たちは、貴族の血をひく者でなければならず、戦士であると同時に、一生をキリストに捧げる修道士であることも要求された」。(同)
著名な騎士団としては、聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団がある。
聖ヨハネ騎士団の起源は古く、9世紀に遡り、巡礼としてエルサレムを訪れるキリスト教徒のために、病院兼宿泊所を建設し、運営したのが始まりである。やがて、1099年に十字軍が始まると、「キリストの敵」と戦う宗教騎士集団となっていく。鎧の上に、白い十字架を描いた黒いマントをまとった。
一方、テンプル騎士団は、1099年の第一次十字軍が引き上げたあと、聖地の守護と巡礼者の保護を目的として、1119年に創設された。テンプルという名は、創設時、本部がエルサレムのソロモン王の「神殿」跡と言われる宮殿にあったことによる。赤い十字架のついた白いマントをまとい、長剣と楯、髭を長く伸ばし、髪は短く刈って、貴族的で美々しい姿であった。しかも、イスラム軍との戦いにおける強さと勇敢さが全ヨーロッパに伝えられたから、入団者は増え、財力・土地を増やし、各国に本部を置くようになった。
司馬遼太郎はこのように書いている。「騎士団のなかで最大のものの一つは、テンプル騎士団とよばれるもので、その最盛期には加盟騎士1万5千、所属荘園1万5百か所といわれた。荘園の多くは、ヨーロッパ諸国の王侯が寄進したものである」。(『南蛮のみちⅡ』)
「騎士たちは、俗界での身分を捨て、修道僧と同じ規則を守る義務を課される。清貧、服従、貞潔がそれだった。妻帯は禁じられていた。彼らは、いわば僧兵であったのである」。(塩野七生・同)
ただ、塩野七生は、このようにも書いている。
「騎士たちの誰もが、この誓願(※貞潔、服従、清貧)を厳守していたわけではない。厳守されていると言えるのは、服従だけで、清貧は、西欧の高名な貴族の子弟の集まる聖ヨハネ騎士団では、ロードス島の現在の生活ぶりが清貧なのであった。西欧にいる兄や弟たちの、王の宮廷や自領の城での日常に比べれば、たしかにロードスでの騎士の生活は、彼らにしてみれば立派に清貧の名に値したのである。また、女も、妻帯こそ禁じられていたが、秘かに通じるのは黙認されていた。ただ、それも秘かにであって、公然と女と同棲するなどは、他の騎士は誰一人しないことだった」。(同)
(作品のなか、主人公の一人である騎士は、命令には忠実で勇敢だが、公然とロードス島の女性と同棲していた。この騎士が戦死した翌日、彼女も甲冑を着て男装し、戦って、死ぬ)。
エンリケ航海王子が、サグレス村の一人の女性を愛し、公然とではなく、村に通っていたとしても、不思議はない。
聖ヨハネ騎士団は、今も存続する。映画「ローマの休日」で、ヘップバーンがアイスクリームをなめながら降りたスペイン階段のその先は、ローマで一番のブランドショップ街であるコンドッティ通り。その通りに、即ちローマの1等地に、今も聖ヨハネ騎士団の本部があるそうだ。ヴァチカンと同じ、イタリアの中の独立国で、国土なき国家として巨額の財産を持ち、世界に展開する8000人の「騎士」が今も所属して、国連のオブザーバー国にもなっている。イスラムとの「聖戦」は、さすがにもう、やっていない。現在の主たる活動は、創設時に戻って、医療活動。
一方、テンプル騎士団は、不幸な運命をたどった。
「この騎士団のフランスでの強大な財力と広大な領有地が、王権強化に熱心だったフランス王の関心をよんでしまったのである。これらをすべて手中にしようと決心したフランス王・フィリップⅣ世は、傀儡教皇クレメンスⅤ世を動かし、テンプル騎士団の壊滅に着手した。理由は、異端の罪、秘密結社結成の罪などである」。(同)
「騎士たちは次々と拷問にかけられ、火あぶりの刑に処せられ、1314年、騎士団長の処刑で、テンプル騎士団は完全に壊滅した」。(同)
余談であるが、1986年に制作された映画『薔薇の名前』。主演はショーン・コネリー。同じ時代の1327年、北部イタリアの修道院を舞台にした物語で、中世ヨーロッパのキリスト教が支配する世界や修道院の雰囲気をよく再現した映画である。異端審判にかけられた修道士たちは、恐ろしい拷問にかけられるより、異端であることを認めて、火あぶりにされることを選ぶのである。
現代のカソリックの公式見解では、テンプル騎士団に対する疑いは完全な冤罪であり、裁判はフランス王の意図を含んだ不公正なものであったとしている。
今ごろ、そんなことを言っても、おそい!!
とにかくテンプル騎士団は、フランスの総本部をはじめ、全ヨーロッパの各国本部も解散させられた。だが、多くの国では、騎士に対する異端裁判において無罪とし、弾圧をしなかった。ポルトガルでは、国王が騎士団の逮捕を拒否し、数年足らずのうちに、キリスト騎士団と名を変えて復活させた。本部はやはりトマールのキリスト修道院である。
それからおよそ1世紀後、キリスト騎士団は団長としてエンリケ王子を迎え、受け継いだ莫大な財産を使って、大航海時代を切り開いていった。
ポルトガルにおいては、テンプル騎士団は、大海原に乗り出す航海者に変身したのである。
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< キリスト修道院を見学する >
修道院の東側には、「墓の回廊」がある。エンリケ航海王子が騎士と修道士の墓所として造ったものである。修道院においては、死者の衣服や持ち物はすべて寄贈されるし、墓も簡素である。
( 墓の回廊 )
「墓の回廊」のさらに東側には、エンリケ航海王子が40年間、居所にしていたという邸宅が、廃墟となって残っていた。
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南門を入ると、すぐに礼拝堂があった。「テンプル騎士団の聖堂」である。
テンプル騎士団の聖堂は、エルサレムのソロモン王の神殿及び聖墳墓教会をモデルにして造られる。ゆえに、十字形ではなく、16角形の円堂になっている。
レコンキスタの戦いのころ、騎士たちはすぐに戦いに行けるように、馬上で中央の塔を回りながらミサに参加したという。
堂内は大航海時代の16世紀の壁画で飾られ、この大修道院のなかで唯一、絢爛豪華の印象を与える。
(テンプル騎士団の聖堂の中央の塔)
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下の写真は、16世紀に建増しされた主回廊の上部である。黒ずんだ石柱と壁が中世的な雰囲気を漂わせるが、その装飾の船のロープや鎖は、大航海時代の特徴である。
( 主回廊 )
ホテルのアズレージョに描かれていたマヌエル様式の窓もあった。
修道士たちの居室のある廊下は、修道院らしい静けさが保たれている。
( 回廊につながる廊下 )
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< エンリケ航海王子とトマールの町 >
キリスト修道院からトマールの町へ下る途中、トマールの美しい町並みが見渡せた。
エンリケ航海王子は、ナバオン川の治水を指示し、今日に残るトマールの市街地の設計をしたという。
(トマールの町)
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旧市街の中心、レブプリカ広場まで下りてきた。
広場の東側には、サン・ジョアン教会と鐘楼が建つ。とんがり屋根の鐘楼が、いい感じである。
(レブプリカ広場の教会と鐘楼)
教会に向かい合うこちら側には、市庁舎がある。
並んだポールの上の赤い十字は、キリスト騎士団の徽章だ。この町の至る所にあって、この町がかつてテンプル騎士団やキリスト騎士団の町であったことを、今に伝えている。
「騎士団にはそれぞれ徽章があり、それらはマントなどに縫いつけられた。テンプル騎士団の場合、きわめて特殊な十字だったが、その徽章こそ『ポルトガル十字』なのである。(司馬遼太郎『南蛮のみちⅡ』)
テンプル騎士団の徽章は、キリスト騎士団に引き継がれ、大航海時代に騎士が航海者になっても受け継がれた。フランシスコ・ザヴィエルも、帆にこの赤い十字を付けた帆船に乗って、日本を訪れたのである。
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町にはいくつか教会があるが、この広場のサン・ジョアン教会が、市庁舎と向かい合って、町の中心になる教会と思われる。15~16世紀にゴシック様式で建てられた。
ちょっと中を覗いてみると、美しい礼拝堂の中で、折しも結婚式の最中だった。
(サン・ジョアン教会の結婚式)
広場の一角のカフェテラスで、観光客や地元の人々に交じって、白ワインを飲んで、ひと時を過ごした。
ヨーロッパの旧市街は、街並みそれ自体が美しいから、散策の後、街並みや人々を眺めながら、ワインを飲んで過ごすひと時は、至福のときである。それに、この小さな町の小さな広場は、どこかメルヘンチックで、印象に残る広場であった。
( 白い雲と鐘楼 )
(レブプリカ広場の像の周りで遊ぶ子ら)
結婚式が終わったらしく、近くから、或いは遠くから駆け付けた一族郎党・親類縁者、この町の友人たちも、教会の外に出てきた。子どももいる。
小さいけれどオシャレな教会の建物、美しい広場の石畳、ちょっとよそ行きの服を着た人々の談笑、空は晴れて、午後の日はやや傾き、絵になる光景だった。
(結婚式から出てきた人々)
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夜、食事の後、もう一度広場にやってくると、午後とは少し違った物語の世界があった。
(ライトアップされたサン・ジョアン教会)
鐘楼は一層メルヘンチックで、サン・ジョアン教会の扉のフランボワイヤン様式の装飾は、ライトアップされて一層シックに見えた。
( 鐘楼 )
( サン・ジョアン教会の扉 )
広場の向こうには、暗い丘の上に、キリスト修道院の城塞もライトアップされていた。
( 丘の上のキリスト修道院 )
このポルトガルの旅でいくつかの修道院を見てきたが、ポルトガルの修道院というのは、かつて見て回ったフランスのロマネスクの修道院と違って、すべて、戦う騎士団の城塞として建てられた、騎士団の修道院だった。
その違いが、歴史というものだと……旅をしながら気づいた。
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