( 紀伊の海 )
大きな紀伊半島のとん先に、ちょこんと突き出した潮岬。遥かな昔は島だった。その岬に潮岬灯台がある。
潮岬灯台のそばに立って、太平洋の波濤を眺め、すぐそばの杜のなかにある潮御崎神社に参詣してから、車を北へ走らせた。
まもなく東側に見えてくるのが紀伊大島。大島というが、大きな紀伊半島のとん先にある小島である。島の東端に樫野崎 (カシノザキ) 灯台がある。
30年前に来たときは、車を置き、船で渡った。渡船場はどこだったかと、海沿いに車を走らせていると、思いがけずも、島に向かって、海を跨ぐ架橋が現れた。… 30年もたつと、こういう変化もある。
橋を渡り、島の東端へ車を走らせる。
そして、パーキングに車を置いて、南国的な樹林の中の道を、潮の風と香りを感じながら、灯台へ向かって歩く。
トルコ海軍遭難碑とその記念館があり、トルコの民芸品らしきものを売る土産屋もある。ここはちょっとした異文化の風のある観光地なのだ。
島の先端の原っぱに立つ灯台の周囲も、観光客でにぎわっていた。
☆ ☆ ☆
以下は、30年前ここに来て、記念館に入り、初めて知った話である。
1890年 (明治23年)、トルコ皇帝の特使を乗せた軍艦エルトゥール号が、日本までの長い航海を終え、天皇に拝謁し、再び帰国の途に着いた。しかし、串本沖で暴風雨に遭遇。軍艦は座礁し、乗員は夜の荒れ狂う海に投げ出され、518名の犠牲者を出した。が、69名は息も絶え絶え大島に泳ぎ着いた。
深夜、この事態を知った島民たちは、夜を徹し、その後の数日間、救助・救護に当たった。彼らを家に担ぎ込み、緊急時に備えて飼っていた鶏をつぶして食べさせ、漂着した遺体を丁寧に埋葬し、遺品を保管した。
交通も通信手段もない時代。誰に命令され、指示されたわけでもなく、紀伊半島のとん先の小さな島の漁村で、貧しい村人たちが、なすべきことを懸命になしたのである。
その後、明治天皇の命により、救助された人々は日本の軍艦でトルコに送り届けられた。
また、山田寅太郎という人が、遭難者とその家族のために日本で集めた義捐金を持って渡航。トルコ皇帝から厚い感謝の言葉を受け、皇帝の要請でそのままトルコに留まり、両国の友好親善に努めた。
この話は、トルコの教科書に掲載された。
以上が、記念館のパネルで知った事柄である。ただ、この出来事がトルコの教科書に載ったということについて、しっかりと腑に落ちたわけではなかった。
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後日譚がある。
時代は遥かに下がる。なにしろ、30年前に私がこの灯台を訪れた、そのあと、1985年の出来事である。
当時、このエピソードがテレビ、新聞で報道されたのかどうか、知らない。
この事実を知ったのは、さらにずっと後、テレビで、このエピソードがドキュメンタリー風に紹介され(NHKの「プロジェクトX」)、それを偶然に見て、知ったのである。
事が起こったのは、イラン・イラク戦争 (1980~1988) のさ中である。
1985年3月17日、制空権を握っていたイラクは、48時間後の19日午後8時30分以後、イラン上空を飛ぶ全ての航空機を撃墜すると宣言した。これより先、すでにイラン政府は、安全のため国内にいる外国人すべての退去を求めていた。
欧米各国は、テヘランに残留していた自国民救出のために、脱出用の航空機を確保・派遣した。
だが、日本政府は日本航空に打診するも、労働組合が「危険」を理由に反対。
自衛隊機の派遣については、憲法9条違反の自衛隊機を海外に派遣するなどもってものほか、と、当時の社会党などが反対した。こうして、テヘランにいる日本国民は、なすすべなく見捨てられた。(崇高なる憲法と、平和を愛する国民によって)。
事情を知った当時のトルコ首相( のち、大統領) が決断し、トルコ航空に働きかける。
トルコ航空で、パイロットたちに、日本人救出のための志願者を募ったところ、全員が手を挙げたという。
2機の航空機が飛び立ち、現地で給油の後、1機目が193名の日本人を乗せて、トルコに向かった。2機目がさらに残っていた17名を乗せて、ぎりぎりの時間にテヘランを飛び立った。
窓のシャッターが閉じられた2機目の機内で、緊張し、固唾を呑む乗客たちに、パイロットからの機内放送が流れたのは、まさにタイムリミットの午後8時30分だった。
「日本人の乗客の皆様、今、本機は、国境を越えてトルコに入りました。ようこそトルコへ」。機内に拍手と歓声が沸き起こったという。
元駐日トルコ大使ネジアティ・ウトカン氏の言葉。
「エルトゥール号事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今も、トルコの人たちは忘れていません。私も、小学校のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥール号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」。
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世界に、日本を好きな国や、人々は多い。
それだけのことを、日本国と日本人は、地道に、時には献身的に、恩着せがましくなく、してきている。戦前も、戦後も。
日本人は、自分たちの歴史に、もう少しだけ自信をもってもよいと思う。そして、そういうことを学べる、楽しい歴史教科書を作ってほしい。
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灯台めぐりのドライブは、まだ続く。
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