(孔子を祀る大成殿)
以下も、司馬遼太郎の『街道をゆく37 神田界隈』を引用しながら書いていきます。
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<神田の「地の利」は湯島の聖堂>
「江戸の地形で言うと、本郷台が小さな起伏をくりかえしつつ南にのび、湯島台にいたり、神田川に足もとを削られている」。
神田川が流れているのは、湯島台と神田駿河台の間を深く削った人工の渓谷で、深い渓に清流が流れ、その風景は江戸名所の一つとなっていた。
「江戸の昔は、昌平橋 (今の架橋場所より、やや上流) ひとつが、湯島と神田駿河台をむすんでいた」。
(聖橋が架橋されて、2つの台地が最短距離でむすばれたのは、関東大震災のあとである)。
神田駿河台を下り、昌平橋を渡って、昌平坂を上がると、湯島の聖堂があった。
そこは、初め、将軍に侍講した儒学者・林家の私塾であった。
幕府の学問所になった (つまり官設になった) のは、江戸時代も後半に入ってからである。高校の日本史で「昌平坂学問所(昌平黌)」とならった。今の日本史の教科書に登場するのかどうかは知らない。
「湯島に聖堂があったればこそ、神田川をへだてた神田界隈において学塾や書籍商がさかえたのである」。
そういう地の利が神田にはあったのだ。
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[将軍家の侍講にすぎなかった]
戦国を生き延び天下をとった徳川家康は学問するゆとりはなかった。その分、2代将軍秀忠には、儒学者の林羅山を侍講させて勉強させた。
3代将軍家光のとき、林家は今の上野公園の一角に屋敷地を与えられた。林家はその地に学問所を開き、孔子を祀る廟も建てた。
ただし、これはあくまで林家の私塾である。徳川幕府は幕臣(旗本・御家人)の教育を各家に任せていたから、諸藩における藩校のようなものは開設しなかった。
林家は将軍のいわば家庭教師のような存在に過ぎなかった。
[湯島の聖堂の誕生]
世の中が安定した元禄の時代、好学の将軍5代目綱吉は、林家に湯島の地6千余坪を下賜して、孔子廟を建てさせ、自ら「大成殿」と名づけた。
林家はこの湯島の地に家塾を移し、学寮も興した。
江戸の人々はここを「湯島の聖堂」と呼ぶようになる。
[官学の学問所の開設]
1790年、11代将軍家斉のとき、湯島の聖堂は敷地が倍に広げられて、幕府の官学所となり、昌平坂学問所(昌平黌)と名づけられた。
林家は既に学問が衰えていたから、教授陣には全国から指折りの朱子学者が迎えられた。
「昌平」という名は、孔子(BC551~479)がうまれた郷村の名である。
朱子学を幕府の官学としたのには、政治的背景があった。老中松平定信による寛政の改革である。
改革と言っても世の流れに逆行する改革で、実際、失敗に終わった。
松平定信は前任の老中田沼意次の商業主義的な改革を批判し、商いやカネを悪とする極端な農本主義政策をとって、人々に質素倹約の生活を要求した。定信は優れた読書人であったが、彼にとって読書・学問はまず儒学であったから、紀元前5、6世紀の孔子が思い描いた「村落国家」を世の理想として描いていたのかもしれない。理想主義者は往々にして観念のなかで理想を強化し、ついにはそれを強引に実現しようとする。
定信は、学問の分野においても「寛政異学の禁」(1787年)を出した。「異学」とは朱子学以外の儒学のこと。
信長や秀吉は城下町を整備して商いを奨励した。徳川の世になり、世の中が治まると、商いは一層盛んになる。すると、人々は物事をモノやコトに沿ってありのままに見、とらえようとするようになる。
儒学の世界でも、元禄の頃から一種の人文科学的な思考と方法をとる荻生徂徠の古文辞学派などが興ってきた。
定信はこれらを排斥して、道学的な朱子学を官学としたのである。
かくして、湯島の聖堂と昌平坂学問所は、幕末に到るまで、長く日本の漢学の最高権威であり続けた。
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<湯島の聖堂を見学する>
湯島の聖堂のある一角は、明治以後、今も国有地である。
古風で重厚な練り塀に囲まれた敷地内は、古木が生い茂り、森閑としていた。
(練り塀)
練り塀の一部が開けられて門となり、入り口に郭内の見取り図が掲示されていた。出入りは全く自由のようだ。
(郭内絵図)
郭内は大きく2分されている。東側の斯文会館では、今でも儒学や史学などの漢学の講義が行われるらしい。私が学生であった昔、大学に、著名な漢学者であった鎌田正教授がいらっしゃったが、こちらの講師陣でもあったことを、今回、『街道をゆく』で知った。
斯文会館の方は見学せず、西の大成殿の方へ向かった。
(練り塀と石畳の通路)
訪れる人や見学者にも、めったに出会わない。東京の都心の一角とは思えないほど、しんとした別世界である。
入徳(ニュウトク)門をくぐる。
(入徳門)
「高々とした石段をのぼって、杏壇(キョウダン)門に入り … 」。
(石段の先に杏壇門)
(杏壇門の奥に大成殿)
「やがて孔子をまつる大成殿の前に出た」。
(孔子を祀る大成殿)
日本の神社などと違って、全体が墨を塗ったような色で、壮大で、威圧的な建物だった。
論語の中で弟子たちと問答する孔子は、もう少し知的で、やわらない人物ではないかと思う。あるいは、孔子廟と言っても、朱子好みの建造物かも知れないと勝手なことを思った。
今日は入れないが、曜日によって中にも入れるようだ。
江戸時代の建物は関東大震災で焼失し、昭和10年に再建された。今は鉄筋コンクリート製だが、木造風の感じに再建されている。
現在、大成殿と斯文会館の区画しか残っていないが、かつての昌平坂学問所の敷地は広大で、「大成殿を中心として学舎があり、また学寮があり、べつに文庫があり、さらに教官の住宅があった」という。
「学生は原則として幕臣の子弟だった。別に書生寮があり、諸藩の者や浪人などを入学させた。俊才の多くはここから出た」。「当時すでに公開講座も併設されていたらしく、町の者も受講した」。
とにもかくにも、江戸時代の日本の儒学の最高権威であった風韻がしのばれる一角だった。
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<明治後の湯島の聖堂>
幕末期、幕府は湯島の昌平坂学問所のほかに、神田に、二つの学問所を開設した。洋学の「開成所」と、西洋医学の「医学所」である。
明治維新があり、それらは明治政府が接収し、引き継いだ。
変遷ののち、「開成所」は東京大学の法・理・文の3学部に、「医学所」は東京大学医学部に発展した。
東大の場所は、湯島のすぐ北、文京区の本郷台である。
一方、昌平坂学問所は紆余曲折の末に廃止された。もともと朱子学では新時代において飛翔のしようがなかった。
湯島の聖堂の敷地には、一時期、文部省、国立博物館、東京師範学校(のち、東京高等師範学校)、東京女子師範学校(のち、東京高等女子師範学校)が設置された。
その後、文部省は霞が関へ、国立博物館は上野へ、東京高等師範学校と東京高等女子師範学校は文京区の大塚の地へ、それぞれ移転していった。
東京高等師範学校(東京教育大を経て筑波大学)の宣揚歌の歌詞に「人も知る茗渓の水」という一節が登場し、また、東京高等女子師範学校が大塚の地にありながら、のちにお茶の水女子大学の校名を持つようになるのも、発祥の地が神田川の茗渓を前にした湯島の地であったことによる。
なお、広大な跡地は、現在、東京医科歯科大学のキャンパスが大きく占めている。
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